慶熙宮(경희궁、キョンヒグン)は、韓国ソウルにある5大王宮の1つで、李氏朝鮮時代(1392年~1910年)の後期に李朝の王たちにより西の離宮として使われた宮殿です。
現在の慶熙宮は、ソウル市による宮殿跡地の発掘調査を経て、2002年に正殿一帯を復元したもので、本来の規模はもっと大きかったと言われます。慶熙宮の正門に隣接してソウル歴史博物館が併設されていますので、一緒に見に行くことをお勧めします。
今回は、そんな慶熙宮に行く前に知っておきたいこととして、慶熙宮の歴史やその魅力、そして慶熙宮の見どころ(フォトスポット)について解説します。
【目次】
慶熙宮に行く前に知っておきたい基礎知識!
ソウルにある5つの王宮の中で、朝鮮王朝の”正宮”といえば景福宮(キョンボックン)になります。景福宮の正門は「光化門(クァンファムン)」と呼ばれており、ソウル地下鉄2号線の光化門駅から北側を眺めてみれば、少し遠くに景福宮が見えることでしょう。そんな光化門駅から西側に向かって徒歩10数分ほど歩いていくと、かつて李朝の”西の離宮”であった慶熙宮(キョンヒグン)が見えてきます。少し小さめの慶熙宮は、観光客も少なく静かな雰囲気であり、やや地味な存在に映ります。
慶熙宮は、どのような王宮だったのでしょうか。
慶熙宮が建設された時代は、李朝の中期。豊臣秀吉による2度の朝鮮出兵(1592年、1596年)が終わった後の時期でした。
当時、第14代王である宣祖(ソンジョ、在位期間1567年~1608年)は、戦時に焼失してしまった景福宮と昌徳宮に代わり、住まいとして現在の徳寿宮の場所にあった王家の邸宅を一時的に使っていました。財政面などの理由から景福宮の再建はできなかったと言います。
第15代王の光海君(クァンヘグン、在位期間1608年~1623年)が即位すると、1610年に昌徳宮のみを再建し、正宮として移り住むようになります。その後、徳寿宮の近くの場所に、離宮として建築されたのが慶熙宮でした。
慶熙宮を建てる前、その場所は、第16代王・仁祖(インジョ)の父・定遠君(チョンウォングン)の邸宅だったと言われ、この人物は光海君の政敵の関係にありました。この邸宅の場所は仁王山(インワンサン)の麓にあって、そこに王気(王が出てくるという予兆)が漂っているという風水地理の噂があり、それを聞いた光海君がその土地を奪って王宮を建てたという話が伝わっています。
慶熙宮の建設は1617年に始まり、1623年に完成しました。ただし、当時の名称は慶徳宮(キョンドックン)と言いました。
こうして建設された慶熙宮の建物は、虹橋(홍교、ホンギョ)と呼ばれた長い石橋で徳寿宮(当時の名称は慶運宮)に連結されていました。この2つの王宮は、朝鮮時代後期における東の正宮である昌徳宮・昌慶宮に対し「西殿(서궐、ソグォル)」と呼ばれて、王たちにより離宮として使われました。
特に第21王・英祖(ヨンジョ、在位期間1724年~1776年)は50年近い治世の半分を慶熙宮で過ごしたと言われます。「慶熙宮」という宮殿名は、この時代の1760年に改められたものです。
このように大切にされた慶熙宮でしたが、19世紀に入ると宮殿が使用されなくなっていき、1865年に興宣大院君が景福宮を再建した際には、慶熙宮の建物を資材として用いたため、その90%にも及ぶ建物が壊されたと言います(ナムウィキ(韓国語)参照)。
さらに日本植民地時代(1910年~1945年)には、慶熙宮の敷地に残っていた正門や正殿(崇政殿)を含む5つの建物も民間に売却され、他の場所に移設されていきました。これにより慶熙宮の姿は完全に失わたものとなりました。
一方、慶熙宮の跡地には、1910年、日本人のための学校である京城中学校が建てられたと言います。この学校は、1945年の解放後にソウル高校となり、1980年に高校が瑞草区に移転したことによりソウル市立美術館として使用されていました。
慶熙宮が現在の姿に復元されるのは、その後のことです。ソウル市は1987年から慶熙宮跡の発掘調査を進め、これにより慶熙宮の正殿一帯を復元し、2002年から一般公開が始まりました。
慶熙宮が現在の姿に復元されるのは、その後のことです。ソウル市は1987年から慶熙宮跡の発掘調査を進め、これにより慶熙宮の正殿一帯を復元し、2002年から一般公開が始まりました。
慶熙宮の主な歴史1608年、第15代王・光海君が即位
1617年、光海君が建築開始
1623年、離宮「敬徳宮」完成
1760年、第21代王・英祖が「慶熙宮」へ改称
1865年、正宮・景福宮完成。慶熙宮の多くの建物が喪失
1907年、敷地内に京城中学校建設
1980年、ソウル高校が瑞草区に移転。ソウル市立美術館として使用
1987年、慶熙宮址の発掘調査着手。その後、復元へ
2002年、一般公開
慶熙宮の見どころ(フォトスポット)
慶熙宮は、山の麓の傾斜に合わせて自然と調和した造りになっており、ソウル都心部にありながらも観光客は少ないため宮殿の散策をゆったりと楽しめます。もともと宮殿内には、大小100棟の建物があったと言われますが、現在の慶熙宮は正殿である崇政殿の一帯がコンパクトに復元されたものです。ソウルの他の王宮にないものとして瑞岩(ソアム)という大きな岩が宮殿内にあり、見ごたえがあります。隣接するソウル歴史博物館に立ち寄ることもお忘れなく!
正門・興化門(흥화문、フンファムン)
慶熙宮の正門であり、1998年に今の場所に復元されたものです。シンプルな1階建ての木造の門だということが特徴です。この門は、日本統治時代には伊藤博文を称えるために建てられたソウル市内の博文寺の正門として移築されていたと言います。韓国の解放後は、同じ場所に新羅ホテルが建てられ、その迎賓館の正門として使用されていました(現在の地図)。
現在の慶熙宮を再建する際に、本来の正門の位置には救世軍会館の建物が建っていたため、本来の位置とは異なる現位置に再び移設されてきたのが現在の興化門です。このため、この門を本来の位置に戻そうというソウル市の計画があります。
正殿・崇政殿(숭정전、スンジョンジョン)
慶熙宮の正殿であって、正門の興化門と時を同じくして現在の姿に復元されたものです。離宮の正殿ではありますが、ここで幾人かの王の即位式が行われたこともありました。その他にも、この建物で王室のさまざまな公式行事が行われたと伝わっています。>
元の崇政殿の建物は、1926年にソウルの南山にある仏教寺院に移設され、その後、仏教系の東国大学内の正覺院(ジョンガグォン)という施設になっています(現在の地図)。これをコピーして、発掘調査に基づく現在の位置に崇政殿が再現されたのだそうです。
泰寧殿(태령전、テリョンジョン)
泰寧殿は、王の肖像を保管し奉るために用いられた建物であり、かつて英祖の肖像画13点のつち7点がここに安置されていたと言います(ナムウィキ(韓国語))。しかし、1865年の景福宮再建に際しその資材に使うため、この建物も壊されました。
現在は、以下の姿に復元されており、その裏に瑞岩が見えます。
現在は、以下の姿に復元されており、その裏に瑞岩が見えます。
瑞岩(서암、ソアム)
瑞岩は、風変わりな形をした横幅数メートルの大きな岩で、慶熙宮の名所です。泰寧殿の建物の裏に位置しています。
岩の中には泉があって、もともと王岩(왕암)と呼ばれており、この岩の存在やその名称のために光海君がここに王宮を立てたという説もあるようです。
ソウル歴史博物館
首都ソウルの600年の歴史と文化を知ることができる博物館であり、慶熙宮の正門の隣にあります。入場料は無料です。慶熙宮を訪れたら、必ず見ておきたいスポットです。
慶熙宮のまとめ
- 慶熙宮:李朝後期の西の離宮
- 読み方:キョンヒグン(경희궁)
- 行き方:ソウル地下鉄5号線西大門駅から徒歩7分、地下鉄2号線光化駅から徒歩10分
- 地図(リンク)
- 平日の月曜は休業
- 所要時間:30分程度
- 営業時間:9時から18時
- 入場料:無料
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