韓国ソウルの中心部には李朝の正宮・景福宮がありますが、その王宮前に広がる光化門広場の真ん中に堂々した風格を放って座っている銅像。それが今回紹介する世宗(セジョン/세종)大王です。500年以上続いた李氏朝鮮(1392年~1910年)の27人の王の中でも、他のすべての王たちを斥けてトップの人気を誇る世宗大王は「王の中の王」と言って過言でないでしょう。
世宗の人気の理由は、何と言っても、韓民族の文字「ハングル」を作ったことです。この功績による現代社会への影響だけ考えてみても、尊敬を集めるに値する王だったと思います。そのうえ、世宗は30年以上に及ぶ長い統治期間を生かして、科学技術、芸術、文化、国防などの広い分野で、数多くのさまざまな実績を残しました。
今回の記事では、そんな世宗という人物とその歴史的功績をわかりやすく紹介します。さらには、世宗に関連する観光スポットや、世宗を扱った韓国ドラマおよび映画、そして世宗について書かれた日本語書籍なんかも併せて紹介しますので、ぜひご参考ください!
(原本へのリンク)
【目次】
- 世宗大王はどんな人物?何を成したの?
- 世宗を知るための9つのポイント!
①二人の兄たちを退けて王となった世宗
②太宗の命による対馬への侵攻
③天才科学者「チャン・ヨンシル」と数々の発明品
④朝鮮通宝の鋳造と普及の失敗
⑤三浦(삼포/サムポ)の開港
⑥農業重視の政策と税制改革
⑦晩年の政治制度の変更と権力の分散化
⑧民族文字ハングルの創製(訓民正音)
⑨死後の後継者争い - 世宗にまつわるスポット・物・名称を紹介
- 世宗の登場するドラマ・映画
・大河ドラマ『大王世宗/대왕세종』
・ドラマ『根の深い木/뿌리깊은 나무』
・大河ドラマ『チャンヨンシル/장영실』
・映画『王の願い ハングルの始まり』
・映画『世宗大王 星を追う者たち』 - 世宗をより知るための書籍
世宗大王はどんな人物?何を成したの?
世宗(在位1418年~1450年)は、李氏朝鮮の第4代王で、21歳で王位に上ってから、52歳で死去するその瞬間まで、31年間という長期間に渡って国王であり続けました。
世宗は、漢字以外の文字を持たなかった当時の朝鮮社会において、韓国語の表音文字であるハングルを作った功績が大変有名です。それ以外にも世宗は、父・太宗(第3代王、在位1400年~1418年)が堅固にした国の基盤を引き継いで、李氏朝鮮の政治・社会・税制・貨幣などのさまざまな国の諸制度を整備し、儒教の王道政治を貫きました。
その中でもとりわけ世宗は、景福宮の宮中に学問研究所として集賢殿(집현전/チッピョンジョン)を設置し、そこに身分を問わず優秀な人材を登用したことが知られています。当時、集賢殿は名ばかりで機能していませんでしたが、世宗は、集賢殿に登用した人材に農業書『農事直説』、歴史書『高麗史』、経典などの編纂事業を行わせたり、さまざまな実用的な発明品や楽器を作らせたりするなど、多くの実績を残していきました。晩年のハングル創製の研究も集賢殿で行われたと言われます。
そんな世宗も、当時の国際関係には苦しめられたようです。日本に対しては倭寇の侵略対策が重要事項で、王位に就いた直後には、太宗の命令により倭寇の拠点である対馬への遠征を行いましたが、その数年後に太宗が死去した後には、日本との交易拠点として三浦を開港しています。一方、中国の明王朝に対しては、強い事大主義のもとで従属し、金銀や特産品、女性などを朝貢品として献上したと伝わっています。
世宗は、漢字以外の文字を持たなかった当時の朝鮮社会において、韓国語の表音文字であるハングルを作った功績が大変有名です。それ以外にも世宗は、父・太宗(第3代王、在位1400年~1418年)が堅固にした国の基盤を引き継いで、李氏朝鮮の政治・社会・税制・貨幣などのさまざまな国の諸制度を整備し、儒教の王道政治を貫きました。
その中でもとりわけ世宗は、景福宮の宮中に学問研究所として集賢殿(집현전/チッピョンジョン)を設置し、そこに身分を問わず優秀な人材を登用したことが知られています。当時、集賢殿は名ばかりで機能していませんでしたが、世宗は、集賢殿に登用した人材に農業書『農事直説』、歴史書『高麗史』、経典などの編纂事業を行わせたり、さまざまな実用的な発明品や楽器を作らせたりするなど、多くの実績を残していきました。晩年のハングル創製の研究も集賢殿で行われたと言われます。
そんな世宗も、当時の国際関係には苦しめられたようです。日本に対しては倭寇の侵略対策が重要事項で、王位に就いた直後には、太宗の命令により倭寇の拠点である対馬への遠征を行いましたが、その数年後に太宗が死去した後には、日本との交易拠点として三浦を開港しています。一方、中国の明王朝に対しては、強い事大主義のもとで従属し、金銀や特産品、女性などを朝貢品として献上したと伝わっています。
そんな世宗大王ですが、現在の韓国での人気は、朝鮮王の中で間違いなくナンバーワンです。何しろ景福宮前の光化門広場には、他の王たちを押しのけて世宗の銅像があるのですから。これは、徳川家康の代わりに家光の像が置かれているのと同じようなものです。さらに世宗は、一万ウォン札の顔にもなっています。
しかし、世宗がこんな歴史的功績を建てることができた背景には、父・太宗の存在があったことを忘れてはなりません。太宗は、血を血で洗う骨肉の争いを繰り広げながら、有力な功臣や兄弟までも排除・殺害し、第3代王として王位に上りつめました。その後には、王位を脅かす者が二度と現れないように、私兵制度なども廃止しています。こうした太宗が築いた強固な国の基盤があったからこそ、その次の時代に世宗が、さまざまな国の重要政策を着実に実施していくことができたのだと思います。
一万ウォン札の紙幣
世宗まとめ
- 読み方:セジョン/세종
- 誕生:1397年5月7日
- 在位:1418年9月9日~1450年3月30日
- 死去:1450年3月30日
- 王宮:景福宮(正宮)、昌徳宮(離宮)、寿康宮(1418年建立、昌慶宮の前身)
- 父:太宗
- 母:元敬王后閔氏
- 妻:昭憲王后沈氏(正妃)
- 墓:英陵(京畿道豫州市)
世宗を知るための9つのポイント!
①二人の兄たちを退けて王となった世宗
世宗は、1397年に第3代王・太宗の3男として生まれました。同じ母から生まれた二人の兄がいながら、世宗が王位に上ることができた理由は何だったのでしょうか?長男は、譲寧大君(ヤンニョンテグン)といい、もともとは王の後継者である世子(セジャ/세자)でした。しかし、自由奔放な性格や女性問題が問題となって世子の廃位を命じられました。このときの太宗の意向は、世宗に王位を継承させようとしたことにあったと言われます。
次男の考寧大君(ヒョニョンテグン)は、王位継承の座に上ることもなく、政治活動もしなかったと伝わっています。父・太宗の意向を知った彼は、仏教に浸透するとともに、あえて世宗に王位を継がせるよう振る舞うようになったとも言われています。
三男の世宗は、即位前は忠寧大君(チュンニョンテグン)と呼ばれていました。幼いころから読書と勉学を好んだと伝わっています。1418年、太宗は譲寧大君から世子の資格を剥奪し、世宗が19歳の時に王位を譲りました。
②太宗の命による対馬への侵攻
世宗が王に即位してからも、最初の4年間は、上王となった太宗が軍事権や政治の実権を握っていました。そんな中、1419年に、太宗の命令によって対馬への侵攻がなされます(応永の外寇)。当時、朝鮮の沿岸を荒らしていた倭寇の対策に苦慮していた太宗は、倭寇の拠点として対馬を攻撃するという目論見がありました。しかし、この攻撃は、対馬からの反撃にあって失敗に終わります。
その後、1422年に太宗が亡くなった後は、倭寇への武力対策から、世宗は、外交努力による問題解決へと対策が移り変わっていきました。
③天才科学者「チャン・ヨンシル」と数々の発明品
世宗は、儒教思想による政治を理想としながら、その一環として、身分が低くても有能な人材を集め、役職まで与えて人材の活用を図りました。その中に、忘れてはならない人物として、チャン・ヨンシル(장영실、1383年〜1450年)がいます。彼はもともと高麗王朝の高官の家系でしたが、李氏朝鮮の開国とともに、奴婢の身分に落とされてしまいました。これを、1423年(世宗5年)に世宗が免賤したと言います。
チャン・ヨンシルは、その翌年、宮中の工匠から抜擢されて明へと派遣されました。帰国後に、日時計や水時計、天体観測器「簡儀」、雨量を測定する測雨器などの数々の発明品を製作しました。しかし、そんな彼も1442年、製造した王の輿が破損したことから不敬罪に問われ、杖刑を受けました。
そんな功績を残したチャン・ヨンシルは、2016年にはテレビドラマに、2019年には映画にまでなっています(後述)。世宗大王と言えば、この科学者の名を忘れることはできません。
④朝鮮通宝の鋳造と普及の失敗
世宗は、1423年(世宗5年)に朝鮮初期の銅銭である朝鮮通宝を鋳造し、社会へ流通させようとしました。ただし、この貨幣鋳造の議論自体は、朝鮮建国後の1394年に既になされていたもので、それを実行に移したのが世宗だったと言えます。しかし、この鋳造貨幣は、社会経済の未熟や貨幣原料の不足なとにより普及しなかったと言います。その後、朝鮮通宝の価値は低下して信用も失い、1445年には社会から姿を消しました。貨幣流通の試みは、後代に引き継がれるようになったのです。
⑤三浦(삼포/サムポ)の開港
世宗が生きたのは、日本にとっては室町時代(1336年〜1573年)の中盤でした。この時代は、朝鮮半島へ倭寇の活動が激しく、太宗は、倭寇の拠点となっていた対馬への遠征などにより武力により解決を図ろうとしました。この後、対馬からの要請を受けて、世宗は、1426年に、日本との通商港として、乃而浦(ないじほ、現在の熊川)、富山浦(現在の釜山)、塩浦(現在の蔚山)の3港を開きました。対馬の主である宗氏を介して日本との修好通商関係を拡大したと言います。
三浦には、日本人居住地域である倭館が置かれました。しかし、これが後代、三浦の乱が発生することになりました。
⑥農業重視の政策と税制改革
世宗は、農業を重視する農本政策を採っていたと言われます。測雨器を作ったり、農業書『農事直説』を編纂したりした理由も、農業の発展と安定を願ってのことでした。そんな世宗は、新しい田税制度を定めて税収の安定を図るために、高麗以来の税法(踏験損実法/답험손실법)を廃止し、1436年(世宗18年)に貢法詳定所(공법상정소)を設置しました。
⑦晩年の政治制度の変更と権力の分散化
世宗も晩年は健康を害し、1437年には、王の国事負担を軽くする制度変更を行います。太宗が王の権力を強めるために導入した六曹直啓制を取りやめて、議政府署事制に戻し、これにより王の権力を分散させたのでした。
⑧民族文字ハングルの創製(訓民正音)
世宗と言えば、韓国語の表音文字であるハングルを作った王ということで有名ですが、それを成し遂げたのは晩年のこと。いわば世宗にとって、王として集大成の事業だったと言えます。
当時の朝鮮は、中国の従属下にあって、韓国語を伝えるための文字は漢字だけでした。しかし、朝鮮において漢字は一部の知識階級だけが習得しているのに過ぎず、漢字を読めない民衆に文字で物事を伝達することも学を施すこともできませんでした。
世宗は、朝鮮固有の文字を作ることを決めます。しかし、漢字こそが唯一の文字だとする親中派の家臣や、民衆に文字を教えることに反対する家臣からも強い反発受けました。
こうした反対の中でも世宗は文字創製を推し進めました。その新しい文字は中国漢字の発音を正確に表記する目的で作った発音記号であって、これを「訓民正音」、すなわち「民を訓(おし)える正しい音」という意味であるとされました。
1443年から約3年間の研究事業の成果により、1446年(世宗28年)、ついにハングル解説書である『訓民正音』の頒布がなされました。
訓民正音は、世宗が朝鮮の民衆への文字普及のために作ったと言われ、そうした世宗の姿がドラマや映画によく描かれています。しかし、現実には、訓民正音という言葉のとおり、漢字の発音を無知の民衆に正しく教えるという目的だったという指摘もなされています。
いずれにせよ、せっかくの世宗の努力も虚しく、その後の時代も反対の声も多かったハングルは民衆に普及しませんでした。世宗とハングル創製の業績が評価されるのは、近代以降のことになるのでした。
当時の朝鮮は、中国の従属下にあって、韓国語を伝えるための文字は漢字だけでした。しかし、朝鮮において漢字は一部の知識階級だけが習得しているのに過ぎず、漢字を読めない民衆に文字で物事を伝達することも学を施すこともできませんでした。
世宗は、朝鮮固有の文字を作ることを決めます。しかし、漢字こそが唯一の文字だとする親中派の家臣や、民衆に文字を教えることに反対する家臣からも強い反発受けました。
こうした反対の中でも世宗は文字創製を推し進めました。その新しい文字は中国漢字の発音を正確に表記する目的で作った発音記号であって、これを「訓民正音」、すなわち「民を訓(おし)える正しい音」という意味であるとされました。
1443年から約3年間の研究事業の成果により、1446年(世宗28年)、ついにハングル解説書である『訓民正音』の頒布がなされました。
訓民正音は、世宗が朝鮮の民衆への文字普及のために作ったと言われ、そうした世宗の姿がドラマや映画によく描かれています。しかし、現実には、訓民正音という言葉のとおり、漢字の発音を無知の民衆に正しく教えるという目的だったという指摘もなされています。
いずれにせよ、せっかくの世宗の努力も虚しく、その後の時代も反対の声も多かったハングルは民衆に普及しませんでした。世宗とハングル創製の業績が評価されるのは、近代以降のことになるのでした。
⑨死後の後継者争い
世宗が統治した31年間は、朝鮮王朝の国づくりが進められた長期安定の時代でした。1450年に世宗が亡くなると、長男の文宗(ムンジョン/문종)が王位を継ぎます。しかし王になったのも束の間、病弱で2年後に死去すると、さらにその跡を息子の幼い端宗(タンジョン/단종)が継ぐことになりますが、そこから肉親間で王位を争う骨肉の争いが起きるようになります。その結果、王位を勝ち取ったのが世宗の次男であった第7代王・世祖(セジョ/세조)でした。
世宗の年表1382年、父(李芳遠)と母(元敬王后閔氏)の結婚
1394年、実兄である長男(譲寧大君)誕生
1397年、3男として誕生
1400年、父、第3代王・太宗即位
1408年、沈氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚
1418年、第4代王に即位
1419年、対馬への侵攻
1420年、集賢殿を再編、母死去(享年55歳)
1422年、父・太宗死去
1423年、朝鮮通宝を鋳造
1426年、チャン・ヨンシルの登用、三浦の開港
1429年、『農事直説』編纂
1436年、貢法詳定所を設置1437年、北方領土の回復
1446年、訓民正音
1450年、死去(享年53歳)
世宗にまつわるスポット・物・名称を紹介
景福宮の正門前の光化門広場は、世宗の銅像や展示館、世宗文化会館などがあって、まさに世宗の空間ともいえる場所です。世宗やハングルにまつわるものを以下に示していますが、これらを眺めてみても、いかに世宗が韓国で尊敬されている人物であるか、わかるのではないでしょうか。
世宗にまつわるスポット
- 世宗の銅像:光化門広場にある銅像が有名で、その他に、汝矣島、徳寿宮にもある
- 世宗文化会館:光化門広場にある講演会館(参考リンク:コネスト)
- 世宗物語(세종 아야기):光化門広場の地下にある展示館
- 国立ハングル博物館:ソウル地下鉄2号線の二村(イチョン)駅近くにある博物館で、ハングルについて展示している(公式サイト)
- 世宗大王記念館:ソウル地下鉄6号線の高麗大駅近くにある記念館
- 世宗大王陵:驪州(ヨジュ)にある(参考リンク:コネスト、驪州市公式サイト)
世宗にまつわる物・名称
- 一万円札の肖像
- 世宗特別自治市:首都機能を移転するために2012年7月1日に発足した特別自治市で忠清道の中央にある
- 世宗大学:ソウル市広津区にある私立大学
- 世宗大王(駆逐艦):2008年末に配備された駆逐艦
- 世宗学堂:韓国公認の韓国語教育機関
- 世宗基地:韓国の南極観測基地
世宗の登場するドラマ・映画
大河ドラマ『大王世宗/대왕세종』
韓国のKBSで2008年1月より全86話にわたって放送された長編大河ドラマです。世宗の生涯を本格的に取り扱っています。平均視聴率15.2%。ドラマ『根の深い木/뿌리깊은 나무』
韓国のSBSで2011年10月より全24話にわたって放送されたドラマで、韓国のミステリー小説『景福宮の秘密コード』を原作としています。世宗のハングル創製の謎を明かしていくというストーリーで、世宗をハン・ソッキュが演じています。平均視聴率18%。大河ドラマ『チャンヨンシル/장영실』
韓国のKBSで2016年1月より全24話にわたって放送され、KBS大河ドラマの最後の作品となりました。科学者であった蔣英実(チャン・ヨンシル)の生涯を描いています。映画『王の願い ハングルの始まり』
韓国では2019年7月に『わが国の言葉(나랏말싸미)』というタイトルで公開された映画です。ソン・ガンホが演じる世宗大王が、僧侶の協力を得て、ハングルを作ろうと命を賭して尽力する過程が描かれています。映画『世宗大王 星を追う者たち』
韓国では2019年12月に『天文:天に問う(천문: 하늘에 묻는다)』というタイトルで公開された映画です。朝鮮時代の最高の発明家であったチャン・ヨンシルと世宗大王との絆を描いています。ハン・ソッキュとチェ・ミンシクの共演。
世宗をより知るための書籍
参考文献など
- ウィキペディア「世宗(朝鮮王)/訓民正音/集賢殿/応永の外寇」
- ウィキペディア「元敬王后/譲寧大君/蔣英実」
- 中央日報「【噴水台】世宗の改革」(リンク)
- 韓国民俗文化大百科事典「朝鮮通寶」(韓国語リンク)
- 国立中央博物館収蔵品データベース「朝鮮通宝」(韓国語リンク)
- 韓国民俗文化大百科事典「三浦」(韓国語リンク)
ブログランキングに参加中です!
↓のリンクを1日1回ポチっと応援して頂けると、ランキングに反映され嬉しいです。
にほんブログ村
コメント