朝鮮王朝の第10代王・燕山君(ヨンサングン)。15世紀末から16世紀初頭にかけて王位に就いた、稀代の暴君と言われている人物です。

燕山君を知ることにより、朝鮮王朝の政治の難しさとともに、その独裁者の腐敗と悲哀がリアルに伝わってきます。

本記事では、燕山君とはどんな人物であったのかを紹介するとともに、その時代をポイントを押さえ、燕山君が登場するドラマ・映画も紹介していきます!

【目次】
  1. 燕山君はどんな人物?何を成したの?
  2. 燕山君を知るための6つのポイント!
    ①燕山君が王に着くまで
    ②成宗実録の編纂過程で起きた「戊午士禍(1498年)」
    ③燕山君の側室「張緑水(チャン・ノクス)」は朝鮮3大悪女の1人!
    ④生母の死の恨みを晴らそうとした「甲子士禍(1504年)」
    ⑤朝鮮7代にわたる王に仕えた功臣「キム・チョソン」と、その壮絶な最後
    ⑥宮廷クーデタ「中宗反正」と燕山君の最期
  3. 燕山君の登場するドラマ・映画
  4. 〇ドラマ『王妃 チャン・ノクス -宮廷の陰謀-』
    〇ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』
    〇ドラマ『王と私』
    〇ドラマ『7日の王妃』
    〇映画『王の男』
    〇映画『背徳の王宮』

映画『背徳の王宮』における燕山君
간신_연산군


燕山君はどんな人物?何を成したの?

燕山君(ヨンサングン/연산군、1476年~1506年)は、李氏朝鮮の第10代王(在位1495年〜1506年)ですが、暴君として知られるこの人物について、よく語られるエピソードはひどいものばかりです。

朝鮮王朝の1392年の建国以来、安定した政権運営をした王(世宗、成宗)や、武力で王位を勝ち取った王(太宗、世祖)たちがいましたが、燕山君は、前王・成宗の長男として1495年に正式に王位を継承しながらも、宮中で政治的に多くの者を粛清し、治世の最終段階に至っては権力者の証とでもいえるような「金と女」という乱れた生活を送りました。

燕山君が、大量の家臣(主に士林派)や宮廷関係者たちを免職・追放・処刑などに処した政治的迫害事件を「士禍(しか、サファ)」と呼びます。1498年の「戊午士禍」と、1504年の「甲子士禍」という2度の士禍がありました。特に2度目の「甲子士禍」が悲惨で、それは燕山君の生母である廃妃尹氏の賜死に関わった全ての者に対し大粛清が繰り広げられた事件でした。

これらの事件を経て、燕山君の生活はますます乱れていったといいます。燕山君は、宮中の娼妓を増やし、美女を全国から集めたりしました。燕山君の女として、卑しい身分から側室にまで登りつめた人物として張緑水(チャン・ノクス)が有名です。彼女は「朝鮮王朝3大悪女の1人」として、ドラマや映画によく出てきます。

こうした生活を送る燕山君に対して、憤り諫言したために処刑された金処善(キム・チョソン)のような功臣もいました。そんな権力を悪用した燕山君も、最期は、家臣による宮廷クーデター「中宗反正」により王位を剥奪され、その数か月後には流刑先の地で病気により死を迎えました。

このような暴君として知られる燕山君は、ドラマや映画でも、宮中の退廃した様子が描かれることがほとんどです。大ヒット歴史ドラマ『チャングムの誓い』も、燕山君の生母の死と、燕山君の悪政の時代からドラマが始まります。このドラマの主人公・チャングムの父は、まさに燕山君の生母の死に関わって、処刑により命を奪われた人物でした。。。


燕山君まとめ
  • 読み方:ヨンサングン/연산군
  • 誕生:1476年11月23日
  • 在位:1495年1月25日~1506年9月18日
  • 死去:1506年11月20日
  • 王宮:景福宮(正宮)、昌徳宮(離宮)、昌慶宮
  • :成宗
  • :廃妃尹氏(斉献王后)
  • :廃妃慎氏
  • :燕山君の墓(ソウル市、史跡第362号)

燕山君の墓
연산군묘
(原本へのリンク)


燕山君を知るための7つのポイント!

①燕山君が王に着くまで

燕山君は、1476年、第9代王・成宗の長男として、母・廃妃尹氏との間に生まれました。しかし、成宗の2番目の正室となった廃妃尹氏は、その後、成宗の顔に傷をつけたという理由で、王命により賜薬(毒薬)によりこの世を去ります。それは、燕山君がまだ6歳の頃でした。その後、燕山君は、成宗の3番目の正室である貞顕王后の息子のように成長したといいます。

1495年、父・成宗の死により、長男で後継者であった燕山君が王位を継ぎました。そんな燕山君が、いつ生母の死の事実を知ったのかははっきりしませんが、一説によると、成宗の死に際して、その墓碑に王の業績を刻む際に知ったともいわれています。

燕山君も最初は王としての務めを果たし、業績を残していたといいます。しかし、後年、母の悲劇の死の真相を知った彼は、その恨みを晴らすために、朝鮮王朝で最悪といわれる暴君となっていくのでした。


②成宗実録の編纂過程で起きた「戊午士禍(1498年)」

燕山君が第10代王に即位してから、3年後、特定政治勢力の粛清事件「戊午士禍(ほごしか、ムオサファ)」が起こります。当時、政治派閥として「勲旧派(フングパ)」「士林派(サリムパ)」が対立していましたが、この時の事件を含め朝鮮王朝でら「士林派」に対する政治的迫害がよく起こったため、こうした迫害事件を「士禍(しか、サファ)」と呼びます。
ところで、1498年の戊午士禍は、燕山君の時代に起こった2度の士禍のうち、その理由がまだマシな方でした。

当時は成宗が死去した後で、『朝鮮王朝実録 成宗実録』の編纂過程にありました。そうした成宗時代を記録した書物「史草(サチョ/사초)」の中に、士林派の故人「金宗直(キム・ジョンジク)」が、世祖や燕山君を批判する文章がありました。これを、敵対する勲旧派の有力者が見つけます。そして、この事実を燕山君に訴えると、燕山君は、勲旧派による士林派への政治的迫害を容認しました。

このようにして、勲旧派による士林派への迫害が起こり、士林派の有力者は処刑され、多くの者が配流・免職されました。既に亡き金宗直も、墓を暴いてその死体を刑に処したと言われます。



③燕山君の側室「張緑水(チャン・ノクス)」は朝鮮3大悪女の1人!

燕山君は、煩わしい士林派を一掃したあと、背徳的で奢侈な独裁政治を行うようになっていったといいます。

こうした中、「燕山君の女」といえば必ず出てくる人物として、張緑水(チャン・ノクス/장녹수、1470年頃~1506年)が有名です。彼女は、妓生(キーセン)から燕山君の側室になった人物で、朝鮮王朝3大悪女の1人として知られています。

チャン・ノクスは賤民の母から生まれ、貧しい中で歌と踊りを習い、妓生になりました。燕山君の前で、歌や踊りを披露したりもしました。彼女の容姿は平凡ながらも童顔で、愛嬌があり、言葉が巧みで機転が利き、燕山君からの寵愛を受けるようになったといいます。彼女は、燕山君の疑心暗鬼の心を慰めてくれる拠り所になったのだと思います。

その後、燕山君の側室となった彼女には、1503年12月に内命婦(ネビョンブ)従三品淑容の身分が与えられました。そうした彼女に機嫌を取ろうとする宮中の官僚たちも多くいました。その一方で、彼女によって、死に追いやられた宮中の女性も多くいたといいます。

そんな悪評高き彼女は、1506年の中宗反正(宮廷クーデタ)の際に、ついに斬首の刑に処され、人生を終えました。


④生母の死の恨みを晴らそうとした「甲子士禍(1504年)」

燕山君は、1498年の戊午士禍により士林派を排斥しましたが、その6年後、今度は全く異なる理由で、宮中に狂気をもたらした粛清事件「甲子士禍(カプチャサファ/갑자사화)」が起こります。燕山君は、賜薬(毒薬)により非業な死を遂げた生母・廃妃尹氏の死の真相を明らかにし、その恨みを晴らすために、その死に関わった全ての者に対して7か月以上にもわたる大粛清を繰り広げたのです。

この事件では、勲旧派・士林派を問わず、多くの要人が死刑、流刑に処されました。成宗の2人の後宮も処刑され、廃妃尹氏の賜死を実行した張本人であり燕山君の祖母でもあった仁粋(インス)大妃も、燕山君と衝突し、それが原因となって死去しています。


⑤朝鮮7代にわたる王に仕えた功臣「キム・チョソン」と、その壮絶な最後

金処善(キム・チョソン/김처선、1421頃~1505年)は、朝鮮王朝の功臣でありながら、燕山君に諫言したために処刑されたことで有名な人物です。

彼は、李氏朝鮮の第4代王・世宗(1418年~1450年在位)から第10代王・燕山君まで、7人の王に仕えた内侍(宦官)でした。医薬の知識があり、第9代王・成宗の時代には大妃を治療したこともあったといいます。彼自身は波乱万丈の人生で、島流しと復職を繰り返しましたが、最終的には内侍として最高位まで上り詰めました。

そんな長年の王に仕えてきた彼は、酒の席で酔って、燕山君の淫乱な様を強く批判しました。これに燕山君は激しく怒り、その場で彼を処刑してしまいます。その燕山君の怒りは、「処」と「善」という2つの漢字の使用を厳しく禁止したほどだったといいます。キム・チョソンの一族も処罰され、家は取り壊されて池にされるなどの受難を受けました。

そんな彼の名誉は、1506年の中宗反正直後に回復し、さらに240年後の英祖の時代に、彼の故郷にその功績を称える旌門が建てられました。


⑥宮廷クーデタ「中宗反正」と燕山君の最期

燕山君による戊午士禍と甲子士禍の粛清事件や、享楽的で退廃した独裁政治により、遂には勲旧派を中心に燕山君廃位の動きが芽生え始めました。

燕山君が即位してから11年。その臣下たちは、1506年に、燕山君の異母弟である晋城大君(第11代王・中宗)を新たな王に擁立し、燕山君の王位を剥奪する宮廷クーデター「中宗反正」を起こします。

これにより、燕山君は江華島に追放され、そのおよそ3か月後に流刑先の江華島で死亡しました。

燕山君の年表

1469年、父・成宗が第9代王に即位
1476年、母親である廃妃尹氏が成宗の正妃となる。成宗の長男として誕生
1479年、廃妃尹氏廃位
1482年、廃妃尹氏死去(6歳の頃)
1483年、後継者(世子)に冊封
1495年、成宗が死去。第10代王に即位(18歳)
1498年、成宗実録の編纂過程で「戊午士禍」が起きる
1503年、張緑水に「内命婦従三品淑容」の身分が与えられる
1504年、廃妃尹氏の賜死に関わった者を粛清する「甲子士禍」が起きる
1506年、中宗反正(宮廷クーデタ)により王位剥奪。約3か月後に流刑先の江華島で病没(享年30歳)




燕山君の登場するドラマ・映画

〇ドラマ『王妃 チャン・ノクス -宮廷の陰謀-』

KBSで1995年1月より全52話にわたって放送されたドラマ(原題『장녹수』)です。張緑水(チャン・ノクス)の生涯を描いています。

〇ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』

韓国MBCで2003年9月より全54回にわたって放送されたドラマ(原題『대장금』)で、平均視聴率46.3%という大人気を博しました。第11代王の中宗の時代に、宮廷に仕えた女官チャングムの苦労の出世物語を描いていますが、ドラマ初期に燕山君時代が描かれます。

〇ドラマ『王と私』

SBSで2007年8月より全63話にわたって放送された歴史ドラマ(原題『(왕과 나)』)です。タイトル中の「私」は宦官・金処善(キム・チョソン)。王に仕える宦官を主人公にして、第7代王・世祖時代の「死六臣」から第11第王・中宗即位までを描いています。平均視聴率18.7%。

〇ドラマ『7日の王妃』

KBSで2017年5月より全20話にわたって放送されたドラマ(原題『7일의 왕비』)です。燕山君と、晋城大君(後の中宗)との王位争いを描いています。中宗が王位に上ると、その王妃となった端敬王后は、燕山君の縁戚であることを理由に7日で王妃の身分がはく奪されてしまいます。平均視聴率5.6%。

〇映画『王の男(왕의 남자』

韓国で2005年12月29日に公開された大ヒット映画で、燕山君と、燕山君に気に入られた旅芸人一座の女形役の男との同性愛を描く異色の内容です。

〇映画『背徳の王宮』

韓国で2015年5月21日に公開された映画(原題『간신』)で、燕山君が国中の美女たちを王宮に呼び寄せるように命じます。美女を利用して燕山君に取り入ろうとする側近たちの愛憎の行方を描いています。



参考文献など

  • ナムウィキ(韓国語)「燕山君/張緑水/金処善」
  • ウィキペディア(韓国語)「燕山君」





ブログランキングに参加中です!
↓のリンクを1日1回ポチっと応援して頂けると、ランキングに反映され嬉しいです。


にほんブログ村 海外生活ブログ 韓国情報へ
にほんブログ村