朝鮮王朝の第11代王・中宗(チュンジョン)。暴君といわれた燕山君(ヨンサングン)を追放する宮廷クーデタののち、臣下たちの推挙によって王位に就いた人物です。

それだけに即位直後から王の基盤は弱く、その臣下たちの権力は強大で、その反動で中宗の時代には臣下たちを粛清する事件も幾度か起きました。

本記事では、中宗とはどんな人物であったのかについて、その時代や宮中の状況とともに紹介するとともに、中宗が登場するドラマ・映画も紹介していきます!

【目次】
  1. 中宗はどんな人物?何を成したの?
  2. 中宗を知るための5つのポイント!
    ①宮廷クーデタ「中宗反正」で王に担ぎ上げられる!
    ②宮廷で権力を握った有力者たちの変遷!
    ③三者三様の「3人の正妃」
    ④日本人居住地での倭人の反乱「三浦の乱」
    ⑤中宗の跡を継いだ「仁宗」と「明宗」
  3. 中宗の登場するドラマ・映画
    〇ドラマ『7日の王妃』
    〇ドラマ『師任堂(サイムダン)、色の日記』
    〇ドラマ『天命(チョンミョン)』
    〇ドラマ『チョン・ウチ』
    〇ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』
    〇ドラマ『黄真伊(ファン・ジニ)』
    〇ドラマ『女人天下』
    〇ドラマ『王朝の暁 〜趙光祖伝〜』
    〇映画『ムルゲ 王朝の怪物』

中宗の肖像画
중종
(原本へのリンク)


中宗はどんな人物?何を成したの?

中宗(チュンジョン/중종、1488年〜1544年)は、李氏朝鮮の第11代王(在位1506年〜1544年)です。

中宗の在位期間は38年間と長く、それだけに、この時代を舞台にした歴史ドラマも数多くつくられたりしていますが、王としての実績や存在感は乏しかったためか、ドラマの主人公は周辺の人物ばかりです。たとえば高視聴率ドラマ『チャングムの誓い』が有名ですが、主人公であるチャングムは王宮に仕える料理人および医女として活躍した女官でした。

このため、中宗がどんな人物であったかを知るには、中宗という王自身に焦点を当てるよりかは、その時代や宮中の状況を理解した方が良さそうです。

朝鮮王朝という500年間の時代は、王の権力と臣下の権力とが衝突し合い、そのパワーバランスが非常に難しい時代でしたが、特に中宗は王権が脆弱な難しい時代に生きました。なぜかというと、前王である第10代王・燕山君が臣下たちによって追放されてしまったからです。そして、これにより立てられた新たな王が中宗でした

燕山君と中宗は、第9代王・成宗(ソンジョン)を共通の父親に持つ異母兄弟という関係でしたが、前王・燕山君の時代、もともと中宗は王位を継承するつもりもなく育った人物でした。しかし、当時の退廃した政治によって燕山君が追放されると、臣下たちの推挙によって中宗が王位に就くことになりました。

つまり、中宗の王位は臣下の権力に依存して始まり、その治世の期間は、最後まで王位を安定して保つための臣下の力が必要とされました。臣下の力が強すぎても弱すぎてもいけず、宮廷の有力者は幾度かの粛清もあって何度も入れ替わりました。

さらに中宗には3人の正妃がいましたが、1番目の正妃は追放された燕山君の縁戚であったため、中宗の即位後7日間で廃位されました。その後、2番目の王妃からは第12代王・仁宗が、3番目の王妃からは第13代王・明宗が生まれます。こうした王妃とその一族は、宮廷で絶大な権力を持ちますから、そこにどのような権力争いが起きるか、想像するだけでもその難しさが伝わってくるのではないでしょうか。

したがって、この時代のドラマや映画では、中宗の王妃たちや宮廷の有力者の方が物語の鍵を握ります。そして劇中の中宗は、優柔不断や病弱な大人しい姿が描かれることが多く、史実もそれに近かったのではないかといわれています。

中宗まとめ

  • 読み方:チュンジョン/중종
  • 誕生:1488年4月16日
  • 在位:1506年9月18日~1544年11月28日
  • 死去:1544年11月29日
  • 王宮:景福宮(正宮)、昌徳宮(離宮)、昌慶宮(西の離宮)
  • :成宗
  • :貞顕王后
  • :端敬王后慎氏、章敬王后尹氏、文定王后尹氏
  • :靖陵(ソウル市)

ドラマ『チャングムの誓い』の中宗
중종 장금



中宗を知るための5つのポイント!

①宮廷クーデタ「中宗反正」で王に担ぎ上げられる!

朝鮮王朝の第10代王・燕山君(ヨンサングン)は、第9代王・成宗(ソンジョン)の長男として1476年に生まれ、王になるべきして王になった人物でした。

これに対し、その後、同じ成宗の子として生まれた中宗(1488年生)は晋城大君(チンソンデグン)と呼ばれましたが、異母兄にあたる燕山君が王位に就いたので、もともと王位を継ぐ理由のない人物でした。

ちょうど中宗が7~18歳であった頃が燕山君の治世(1495年~1506年)でした。しかし、この当時の燕山君による退廃した政治などにより、臣下たちが燕山君を廃位させる宮廷クーデターが1506年に起きました。

この事件は「中宗反正(チュンジョンバンジョン/중종반정)」と呼ばれています。このクーデタを実行した官僚たちによって新たな第11代王として擁立されたのが中宗だったわけです。



②宮廷で権力を握った有力者たちの変遷!

燕山君が官僚たちにより追放させられたことからわかるように、その後の中宗の治世は、官僚たちが強い権力を持ち続けた時代でした。

特に中宗の即位直後は、クーデタを主導した臣下たちが力を持ちました。この者たちは、勲旧派(フングパ)という派閥に属し「反正功臣」とも呼ばれます。その中の1人に、朴元宗(パク・ウォンジョン)という人物がおり、1510年に死去するまで宮廷の権力を握りました。

このようにして始まった中宗の治世(1506年~1544年)は、臣下たちの力が強く、中宗もクーデター勢力に対抗して士林派(サリムパ)を引き入れ革新を図ったりもしました。しかし、急進的な士林勢力が伸長し、幾度かの粛清もあって、次のような有力者が現れては消えていきました。
  • 朴元宗(パク・ウォンジョン/박원종):中宗反正を主導した勲旧派(反正功臣)で、1510年に死去
  • 趙光祖(チョ・クァンジョ/조광조):勲旧派への改革を推進した急進的士林派の中心人物。勲旧派の反発を招き、1519年の「己卯士禍(キミョサファ/기묘사화)」で王命により賜死
  • 南袞(サム・ゴン/남곤):己卯士禍を主導した士林派で、1527年に死去
  • 金安老(キム・アンロ/김안로):南袞らにより追放されていたが、南袞の死後に再び権力を握る。中宗の外戚である尹元老と尹元衡兄弟らとの対立が激化し、1537年に追放・賜死

中宗は、時に権力の強い臣下に依存し、時に行き過ぎた臣下を排除するなど、為政者として難しい立場にあり、優柔不断な傾向にあったともいわれています。



③三者三様の「3人の正妃」

中宗には、3人の正妃と9人の側室がいました。こうした王妃は、その一族とともに、宮廷で大きな権力を持つようになります。

1番目の正妃は、端敬(タンギョン)王后といいます。中宗が11歳の頃の1499年に中宗と結婚し、1506年に中宗が王に即位すると、そのまま王妃となりました。しかし、彼女は燕山君の縁戚であったため、7日間で廃位されます。このような短い王妃の運命は、ドラマ『七日の王妃』というタイトルにもなっている。

2番目の正妃は、章敬(チャンギョン)王后といいます。端敬王后の跡をついで、1506年に王妃となると、1515年に第12代王となる「仁宗」を産みますが、産後66日後に死去してしまいます。

3番目の正妃が、文定(ムンジョン)王后です。20年近く男子に恵まれず、ようやく1534年に第13代王となる「明宗」を産みます。中宗が死去する1544年まで在位しました。しかし、この人物は朝鮮王朝で「稀代の悪后」と呼ばれるようになる人物でした。


④日本人居住地での倭人の反乱「三浦の乱」

李氏朝鮮は、外国との交易を強く制限していたため、日本との関係も薄いものでした。そんな中で、中宗の時代に、日本との関係で、ひとつ覚えておきたい事件が起こります。

それが1510年、朴元宗が死去した直後に朝鮮南東部の日本人居留地で起こった「三浦の乱(삼포왜란)」です。

「三浦」とは、富山浦(釜山)、薺浦(熊川)、塩浦(蔚山)という3つの港で、倭館と呼ばれる日本人居住地が置かれていました。そこでの密貿易が横行したため、これを中宗が激しく取り締まったといいます。

これに反発して、日本人居住者たちが対馬島主の宗盛順の助けにより、三浦の朝鮮役人らを殺害しました。その後、暴動は鎮圧され、三浦居留や日本との貿易はさらに制限されることとなりました。


⑤中宗の跡を継いだ「仁宗」と「明宗」

中宗は1544年に53歳で死去しますが、続けて王位を継いだ仁宗と明宗の経緯を知ると、その外戚らの熾烈な権力争いを知ることができます。

父親である中宗の跡を継いだ第12代王・仁宗(インジョン)は、中宗の2番目の正妃である章敬王后から生まれた子でした。しかし、仁宗は29歳で即位しながら、病弱で、朝鮮王朝で最も在位期間が短い王として知られています。即位から8ヶ月後の1545年に死去してしまいました。

これに対し、その跡を継いだ第13代王・明宗(ミョンジョン)は、中宗の3番目の正妃である文定王后から生まれた子でした。明宗は、11歳で幼くして王位に就いたため、母親である文定王后が実権を握りました。

そして明宗の即位後に起こったのが、「乙巳士禍(ウルササファ)」と呼ばれる臣下たちの勢力争いでした。このとき仁宗の外戚勢力は、章敬王后の兄である尹任をはじめとする「大尹派」といいました。これに対して、明宗の外戚勢力が衝突しました。これにより、文定王后の兄である尹元老・尹元衡をはじめとする「小尹派」が大尹派を敗り、尹任は賜死されたのでした。

中宗の年表

1476年、燕山君が成宗の長男として誕生
1488年、成宗の子として誕生
1494年、晋城大君に冊封(6歳)
1495年、父・成宗が死去。燕山君が第10代王に即位
1506年、宮廷クーデター「中宗反正」で第11代王に即位(18歳)。正妃・端敬王后が7日間で廃位
1510年、勲旧派(反正功臣)である側近・朴元宗の死去。倭人による三浦の乱
1515年、2番目の正妃・端敬王后が「仁宗」を産み、66日後に死去
1517年、急進的士林派。趙光祖による勲旧派への改革
1519年、勲旧派による「己卯士禍」により趙光祖の賜死
1524年、士林派・南袞らによる金安老の弾劾・流刑
1527年、南袞の死去。金安老の息子による灼鼠(チャクソ)の変
1531年、金安老の復権
1534年、3番目の正妃・文定王后が「明宗」を産む
1537年、金安老が文定王后を廃する企て。その後、追放・賜死
1544年、死去(享年56歳)。仁宗が第12代王に即位
1545年、仁宗が病死により明宗第13代王に即位。「乙巳士禍」による勢力争い


中宗の登場するドラマ・映画

〇ドラマ『七日の王妃』

韓国KBSで2017年5月より全20回にわたって放送されたドラマです。燕山君と晋城大君(中宗)の王位争いを描いています。中宗が王位に上ると、王妃となった端敬王后は、燕山君の縁戚であることを理由に7日で王妃の身分がはく奪されてしまいます。平均視聴率5.6%(原題『7일의 왕비』)。

〇ドラマ『師任堂(サイムダン)、色の日記』

韓国SBSで2017年1月より全28回にわたって放送されたドラマです。この時代に生きた女流書画家・師任堂の恋の物語を描いています。5万ウォン紙幣の顔にもなっている師任堂は、チャングムを演じたイ・ヨンエが演じました。平均視聴率8.5%(原題『사임당 빛의 일기』)。

〇ドラマ『天命(チョンミョン)』

韓国KBSで2013年4月より全20回にわたって放送されたドラマです。宮廷の医官チェ・ウォンが主人公で、殺人の濡れ衣を着せられ、逃亡の身となります。平均視聴率8.9%(原題『天命:朝鮮逃亡者の話(천명:조선판도망자 이야기)』)。

〇ドラマ『チョン・ウチ』

韓国KBSで2012年11月より全24回にわたって放送されたドラマです。この時代に実在した道士・田禹治(チョン・ウチ/전우치)が主人公で、作者不詳の古典小説「田禹治伝」の内容を元に、恋愛要素のあるSFアクション時代劇に仕立てました。平均視聴率13.4%。

〇ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』

韓国MBCで2003年9月より全54回にわたって放送されたドラマで、平均視聴率46.3%という大人気を博しました(原題『대장금』)。中宗時代の宮廷に仕えた女官チャングムの苦労の出世物語を描いています。


〇ドラマ『黄真伊(ファン・ジニ)』

韓国KBSで2006年10月から全24回にわたって放送されたドラマです。中宗の治世に松都で活躍した女性「黄真伊(ファン・ジニ/황진이)」が主人公で、彼女は李氏朝鮮で最も有名な妓生として知られています。

〇ドラマ『女人天下』

韓国SBSで2001年2月より全150話にわたって放送された長編大河ドラマです。天下を揺るがした女たちということで、この時代の王妃や側室たちの熾烈な戦いを描いています。1958年に連載された小説をドラマ化したものです。平均視聴率32.6%(原題『여인천하』)。

〇ドラマ『王朝の暁 〜趙光祖伝〜』

韓国KBSで1996年1月から全52回にわたって放送されたドラマです。宮廷を改革しようとした趙光祖(チョ・グァンジョ)の生涯を描いています。

〇映画『ムルゲ 王朝の怪物』

韓国では2019年7月に公開された映画です。中宗の時代に存在がささやかれていた怪異な生き物「物怪(ムルゲ)」を題材に、朝廷にうごめく陰謀や武人たちの戦いを描いた韓国の時代劇という設定です。


参考文献など

  • ナムウィキ(韓国語)「中宗」
  • ウィキペディア(韓国語)「中宗」
  • ウィキペディア「中宗(朝鮮王)」「文定王后」「三浦の乱」「仁宗(朝鮮王)」





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