李氏朝鮮(1392年〜1910年)を建国した朝鮮王朝の初代王は、李成桂(이성계、イ・ソンゲ)です。太祖(テジョ)とも呼ばれます。
朝鮮王朝の成り立ちを知るためには、李成桂を知る必要があると思います。そこで、今回の記事では、李成桂についてわかりやすくまとめてみました。
朝鮮王朝の成り立ちを知るためには、李成桂を知る必要があると思います。そこで、今回の記事では、李成桂についてわかりやすくまとめてみました。
朝鮮王朝の建国をめぐる歴史ドラマを見る場合にも、先に李成桂について知っておけば、内容理解に役立つものと思います。
【目次】
朝鮮王朝の建国者「李成桂」はどんな人物?
李成桂(1335年〜1408年)は、もともとは高麗末期に生まれ活躍した優れた軍人であって、彼にはさまざまな戦功がありました。
この頃、中国では明の建国が1368年ですから、元から明へと王朝が移り変わる過渡期でした。このため、高麗内部でも親明派と親元派の抗争が起こったといわれます。
さらに当時は倭寇や紅巾軍などの外敵の侵入もありました。こうした時代が揺れ動く中で、軍事クーデターにより高麗を滅ぼし新王朝を建国したのが李成桂でした。
1392年に李成桂が新王朝を建国した後、首都は開京(現在の開城)から漢陽(現在のソウル)へと遷都され、その社会のシステムも仏教から儒教へと大きく移り変わっていきました。
これにより建国された朝鮮王朝は、1910年の韓国併合まで、なんと500年以上も続くことになりました。
李成桂(まとめ)
- 読み方:イ・ソンゲ/이성계
- 誕生:1335年10月27日
- 在位:1392年7月5日~1398年10月14日
- 死去:1408年6月18日
- 廟号:太祖(テジョ/태조)
- 都城:開京→漢陽(1394年~1399年、1405年~)
- 王宮:景福宮(正宮、1395年創建)、昌徳宮(離宮、1405年創建)
- 父:李子春(桓祖)
- 母:懿恵王后(永興崔氏)
- 妻(正妃):神懿王后(安辺韓氏)、神徳王后(谷山康氏)
- 墓:健元陵(九里市)
李成桂を知るための6つのポイント!
①李成桂は朝鮮半島の北東部で生まれた
李成桂の本貫(先祖の出身地)は全州李氏と言われ、その4代前までは全州(チョンジュ)の豪族だったと言われます。全州は、現在の韓国南西部にあたる全羅北道の中心都市です。
しかし、李成桂は現在の北朝鮮の北東部にある咸鏡南道の永興(金野郡。Google地図)で生まれることになります。
南方の全州から、北方の永興まではかなりの距離が離れています。当時、一体何があったのでしょうか?
李成桂の4代前の先祖は、一族とともに故郷・全州を離れ、その後、現在の北朝鮮の北東部にあたる咸鏡北道に亡命しました。その亡命の理由は、地元役人との女性トラブルがあったという記録が残っているようです。ただし、その真偽のほどは定かではないようです。
②高麗末期の優れた軍人だった
李成桂は、1357年から高麗末期の武将で、数多くの戦功を挙げたと伝わっています。
特に、高麗末期には倭寇の活動が活発化しており、李成桂は倭寇の撃退に功を挙げました。その他にも、紅巾軍の侵入や元軍との戦い、女真族の討伐においても活躍したと言われます。
高麗末期は、日本では考えられないほどの多くの外敵との戦いがあったようです。しかし、そこで活躍した高麗の軍人が自国を滅ぼすようになるのですから、歴史とは皮肉なものです。
高麗末期は、日本では考えられないほどの多くの外敵との戦いがあったようです。しかし、そこで活躍した高麗の軍人が自国を滅ぼすようになるのですから、歴史とは皮肉なものです。
③高麗滅亡への歴史的転換点「威化島回軍」
高麗末期、1368年に中国で成立した明は、その後、中国大陸で伸長しながら高麗も威嚇してきたと言われます。そんな中、高麗から明に攻め入るべく明への出兵がなされます。それは1388年の出来事でした。
この時、明へ向かう大軍を率いたのが李成桂でした。しかし、夏の長雨の中、明へと渡るための鴨緑江は増水し、大軍の行く手を遮ります。兵士たちの士気が下がる中、李成桂が全軍を引き返したその場所が、鴨緑江下流の中洲である威化島(위화도、ウィファド)でした。そしてこの事件が威化島海軍(위화도 회군)です。
李成桂はそのまま軍を引き連れて、高麗の首都である開京(現在の開城)に攻め入り、首都を制圧します。その後、高麗を滅ぼし、1392年に朝鮮王朝を開くことになるわけです。
なお、この事件は韓国の歴史で極めて有名な事件のため、たとえば何か差し迫った状況で大きな決断をするような状況を、韓国語で比喩的に「威化島回軍」と表現することもあるようです。
④漢陽への遷都、景福宮と城郭の建設
李成桂の歴史的功績として決して忘れていけないのが、王朝の首都を開京から漢陽(한양、ハニャン)へと移したことでしょう。
李成桂は、風水思想の信奉者だったと言われ、新王朝を設立した後の1394年、山河が豊かな吉相の地である漢陽を新しい首都に定めました。その後、李成桂は、漢陽に朝鮮王朝の正宮として景福宮を建て、続いて漢陽の城壁と四大城門も完成させました。この地は、長い時を経て、現在のソウルになったわけです。
日本では徳川家康が東京の街の原形を作ったように、韓国では李成桂がソウルの原形を作ったと言えるのではないかと思います。
日本では徳川家康が東京の街の原形を作ったように、韓国では李成桂がソウルの原形を作ったと言えるのではないかと思います。
⑤朝鮮王朝の建国の立役者は鄭道伝
李成桂が朝鮮王朝を建国するにあたって、忘れてはならない功臣が側近・鄭道伝(チョン・ドジョン、1342-1398)でした。
鄭道伝は、もともと高麗末期の政治家であり儒学者でした。朝鮮王朝の建国後、彼は大きな権限を持ち、朝鮮王朝の法や儒教体制の確立を始め、漢陽および景福宮の建築に大きな影響を及ぼしたと言われます。
しかし、そんな彼も、李成桂の息子たちの王位争いに巻き込まれ、大変な最期を迎えます。
⑥息子たちの王位係争と失意の晩年
李成桂には、最初の妻から6人の息子、さらに後妻から2人の息子がいたと言われます。この8人の息子の中で誰が李成桂の後を継ぐのかで激しい争いが起こりました。
朝鮮王朝の初代王となった李成桂は、10歳だった8男・芳碩(バンソク)を溺愛し、自らの後継者に指名しました。しかし、末っ子を後継者に据えようとすれば後継争いが起こるのは当然といえば当然でしょう。この後、二度にわたって起こるのが、俗に王子の乱といわれる事件です。
第一次王子の乱(1398年)と第二次王子の乱(1400年)で、李成桂の息子たちは王位をめぐって骨肉の争いを繰り広げます。この争いに最終的に勝利したのが、3代王である5男・芳遠(バンウォン)であり、後の太宗(テジョン)呼ばれる人物でした。
なお、第一次王子の乱では、李成桂の後継者であった8男・芳碩と側近・鄭道伝は、芳遠によって命を落としています。芳碩の後見人であった鄭道伝は、芳遠を含む6人の異母兄たちを警戒して殺そうと謀っていたのが発覚し、返り討ちにあったのでした。
なお、第一次王子の乱では、李成桂の後継者であった8男・芳碩と側近・鄭道伝は、芳遠によって命を落としています。芳碩の後見人であった鄭道伝は、芳遠を含む6人の異母兄たちを警戒して殺そうと謀っていたのが発覚し、返り討ちにあったのでした。
李成桂の年表
1335年、咸鏡南道にて出生1361年、高麗の官吏になる1367年、5男の芳遠(後の3代王)生まれる1388年、威化島回軍1392年、高麗を滅ぼし、新王朝創設1393年、国号を朝鮮とする1394年、漢陽へ遷都1395年、景福宮創建1397年、漢陽の城郭と四大城門が完成1397年、世宗(後の4代王)生まれる1398年、第1次王子の乱1398年、2代王の定宗即位1399年、開京へ遷都1400年、第2次王子の乱。3代王の即位1400年、咸興に引きこもり仏門に帰す(1402年まで)1405年、漢陽に再還都。昌徳宮創建1408年、昌徳宮にて死去(享年)(参考リンク)
李成桂の登場するドラマ
ドラマ『龍の涙』
ドラマ『大風水』
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