李氏朝鮮の建国から8年。李朝初期の混乱期の中で王位継承を巡る骨肉の争いを最終的に勝利した第3代王が李芳遠(이방원、イ・バンウォン)であり、太宗(テジョン、在位1400年~1418年)とも呼ばれる人物でした。

政権を揺るがす対立勢力をことごとく排除し、王権を強化して、国王中心の体制を整えていった太宗「李芳遠」。今回の記事では、この李芳遠という稀有な人物について、紹介します。




李朝の国王たる真の実力者「李芳遠」!

李氏朝鮮(1392年〜1910年)は、李王家の歴代の王たちが朝鮮半島を統治しながら、500年以上にも渡り続いた長期の王朝です。この新しい国の建国期に、強い政治的リーダーシップを持って国の基礎を固めた人物が、李成桂の5番目の息子である李芳遠(1367年~1422年)でした。

李朝の初代王である李成桂は、高麗末期に軍人として数多くの戦功を上げて、その後、1388年の軍事クーデター(威化島回軍)により高麗王朝を滅ぼしました。しかし、李成桂は軍人としてはたいへん優秀でも、新しい国を率いていくだけの政治家としての力は不十分だったようです。

李朝の王朝体制を確立していこうとするその時期に、側近である鄭道伝らが儒教中心の国造りをしていきました。しかし、同時にその時期は、新しい国の政策や王位継承を巡る争いにより大変な混乱の中にありました。

朝鮮半島における政権の争いは、日本では想像もできないほど激しいものです。当時の争いも、殺らなければ殺られるという緊迫した状況であったと思います。そうした中で、建国直後の対立勢力をことごとく排除して骨肉の争いを最終的に勝ち抜いたのが李芳遠でした。

李芳遠は、父親から受け継いだ軍人としての血筋と、若き頃、科挙に合格した文人としての才知を生かして、18年の間、李朝の王の座に就き、さまざまな重要な政策を成し遂げていきました。彼の野心とリーダーシップは並外れたものだったと言われます。

結果として、第3代王・太宗「李芳遠」は李朝の国の王権を強固なものとし、政権を安定させたうえで、彼の子である第4代王・世宗に政権の座を譲りました。しかし、その過程で数多くの血を流した彼の後世の評価は、必ずしも良くはなかったと言われています。


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太宗大王(想像図)
(原本へのリンク)



李芳遠を知るための5つのポイント!

李芳遠は、自らの政治的な理想と野心を実現するために多くの血を流したため「武」のイメージが先立つかもしれませんが、李成桂という武官の一族の中にあって、文官としての彼の「文」の部分も忘れてはならないと思います。さまざまな政治的勢力が入り乱れた李朝初期の段階において、もし李芳遠がいなかったとしたら、その後の李朝の国の姿は大きく異なっていたに違いありません。

①16歳で科挙に合格した文武両道の秀才!

李芳遠は、高麗末期の1367年、父・李成桂と母・韓氏の5番目の息子として、現在の北朝鮮にある咸興(地図)の帰州で生まれました。

父・李成桂は高麗の優れた武官であり、その息子たちも武芸や馬術を好んだ中で、李芳遠は唯一、学問を好んだといいます。16歳のときには、高麗朝の科挙の試験に合格しました。この時、武官の家系の中にあって文官を輩出したことに、父と母は大変喜んだと伝わっています。

文官であった李芳遠は、高麗末期にあって父・李成桂とは軍事行動を共にしませんでした。

つまり李芳遠は、文官としての才と、父から譲り受けた武官としての才を合わせ持つ人物でした。そうした彼の能力が存分に発揮されて、後年の李朝の国造りと政権運営に生かされたのだと思います。


②高麗の忠臣「鄭夢周」の排除による新王朝設立への功績

1388年、父・李成桂が威化島回軍による軍事クーデターを起こし、高麗の首都・開京(現在の開城)において政権を掌握しました。その後、李成桂は、高麗王からの禅譲を受けて新王朝を開こうとしましたが、これにより高麗王の支持勢力と対立するようになります。

鄭夢周もその一人で、当時、彼は高麗の最高官僚の位置にいる儒学者でした。もともとは高麗朝の改革のために李成桂と志を共にした時期もあったと言います。1392年4月、李成桂が狩猟中の落馬で負傷し休養していた機に乗じて、李成桂一派の排除をしようと試みました。

こうした動きを探知した李芳遠は鄭夢周を排除しようとしますが、父・李成桂はこれに反対をし、鄭夢周を懐柔して仲間に引き込むよう李芳遠を促したと言います。しかし、その後の李芳遠による鄭夢周の説得は失敗し、鄭夢周は開京の善竹橋で殺害されました。

李芳遠は鄭夢周を政権から排除したことで朝鮮王朝の設立に大きな功績を立てましたが、このことは、臣下を大切にしようとする父・李成桂の心に傷を残しました。そんな父とは異なり、新王朝のために冷徹な現実路線を貫き通そうとする李芳遠の歩みは、その後も続いていくこととなります。


③異母兄間での王位継承の争い「第一次王子の乱」

1392年に父・李成桂が朝鮮王朝を創設した後、8年間にも渡る王位継承の争いの最終的勝利者が李芳遠です。そして、その争いの過程の中で最大の山場が、1398年に李芳遠が起こした軍事的反乱である「第一次王子の乱」でした。

この反乱の大きな原因は、その6年前の王朝創設の直後における李成桂による後継者(世子)指名にあったと言われます。当時、李成桂には、最初の妻から6人の息子(6男は既に死去)、後妻から2人の息子がいました。この2人の妻のうち、後妻である姜氏(1356年~1396年)は、高麗王朝の王妃を輩出してきた最高の名家の出であったと伝わっています。

李成桂は、新王朝を創設したその1か月後に、後継者として後妻の2番目の息子である8男・芳碩(バンソク)を指名しました。当時、芳碩はまだ10歳の子供であり、その後見人を側近・鄭道伝が務めるようになりました。最初の妻の息子たち兄弟は、これに大きな不満を持つようなります。

その後、李朝の国造りは鄭道伝の手によって主に進められていきます。1394年には首都を開京から漢陽(現ソウル)に遷都し、その翌年には新しい王宮として景福宮が創建されます。しかし、そうした新王朝の政権を運営する主流勢力に対して、不満を抱く臣下たちもいました。

1398年、李芳遠は、新王朝に不満を持つ臣下や同母兄弟たちと結託します。そして軍事クーデターにより鄭道伝や李芳碩らを殺害して政権を握り、父王を退位へと追いやりました。

この事件の後、李成桂は2番目の息子・定宗に王位を譲り、生まれ故郷である咸州へと旅立ちました。これにより、新王朝の政権は李芳遠が握るようになったわけです(参考リンク:韓国語ウィキ「第一次王子の乱」)。


④李芳遠が王位に就く最後の事件となった「第二次王子の乱」

第1次王子の乱が異母兄弟間での王位継承争いであったとすれば、その2年後の1400年に起こった「第2次王子の乱」は、同母兄弟の間での王位継承争いでした。この乱の首謀者は、4男である懐安君・バンガンでした。

しかし、懐安君が起こしたクーデターは、李芳遠によってあっけなく鎮圧されます。この事件の後、懐安君は流刑に処せられました。この事件により、李芳遠は定宗より後継者(世子)に指名され、その9か月後には定宗から譲位を受けて第3代王・太宗となりました。

李芳遠が王位を継承するまでにたくさんの血が流れたため、彼には冷酷なイメージがあります。しかし、彼が軍事クーデターを成功させたということは、裏を返せば、彼と行動を共にする臣下たちが数多く存在したということです。李芳遠は生まれつきの王ではありませんでした。それはつまり彼には、その実力によって人の上に立つことのできる実力とリーダーシップがあったのだということです。

⑤第3代王・太宗の功績

第3代王・太宗の在位期間は、1400年から1418年までの18年間に及びました。

旧勢力および対立勢力を排除し王権を強化して、国王中心の統治体制を整備したと言われます。その他にも、私兵の廃止、法や官僚制の整備、民意上達制度「申聞鼓」の導入などの功績を残しました。

こうして建国直後の混乱期を収拾したうえで、第4代王・世宗の治世へと移っていくわけです。

李芳遠の年表
1367年、父・李成桂の5男として誕生
1383年、科挙合格(16歳)
1388年、威化島回軍
1392年、高麗を滅ぼし、新王朝創設
1394年、漢陽へ遷都。翌年、景福宮創建
1397年、世宗(後の第4代王)生まれる
1398年、第1次王子の乱
1398年、第2代王の定宗即位
1399年、開京へ遷都
1400年、第2次王子の乱の後、第3代王として即位
1405年、漢陽に再還都。昌徳宮創建
1408年、父・李成桂死去
1418年、第4代王・世宗即位
1422年、死去(享年)


参考







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