大韓民国は1948年に建国されましたが、その国名は新しくも、その名称の由来は大変古いもので、古代朝鮮の三韓の時代にまでさかのぼることができます。この「大韓」という名称は、もともと第26代王・高宗(コジョン)が朝鮮半島の一つの国の独立という願いを込めて決定したものでした。



「大韓民国」の国名決定の経緯

大韓民国(대한민국、テハンミングッ)という国名は、第二次世界大戦の終戦後、米軍統治下にあった朝鮮半島南部の地域が1948年に国として独立する際に決定した、国の正式名称です。英語での正式名称は「Republic of Korea」となります。

この年の6月23日に新国家の国号が「大韓民国」に決定すると、続く7月12日に憲法が制定され、8月15日に李承晩が大韓民国政府の樹立を宣言しました。

当時、国号の候補として「高麗共和国」「朝鮮共和国」「韓国」という名称も挙げられていたと言います。一方、「大韓民国」という名称は、1919年に李承晩・金九ら独立運動の活動家により結成された「大韓民国臨時政府」という名称としても既に使われていたものでした。

ここで「大韓」という名称は「大韓帝国(1897年~1910年)」の国号に由来するもので、「民国」は共和制国家の政体を意味するものになります。当時、「大韓民国」という名称を使用するにあたっては、滅んだ帝国の国号を復活されることに反対する意見(呂運亨)も一部出たものの、日本によって奪われた「大韓」という名称を取り戻すべきという意見(申錫雨)が多数であったと伝わります。



高宗が決定した「大韓」の意味


現在の国名にある「大韓」という名称は、もともとは「大韓帝国」の建国の際に、朝鮮王朝の第26代王・高宗(コジョン)により決定されたものでした。

この当時、日清戦争(1894年~1895年)における日本の勝利により、戦後の講和条約で朝鮮王朝は宗主国・清からの独立が認められることとなりました。しかし、その後、朝鮮王朝は乙未事変(王妃殺害事件、1895年)や高宗のロシア公館亡命(露館播遷、1896年)事件などの政局の大混乱を経験します。その後、高宗はロシアの後ろ盾のもとで1897年に大韓帝国を成立させました。

高宗は、かつて明から下賜された国号「朝鮮」を排して、新しい国名を「大韓」としたのです。この中で「韓」は、もともとは古代朝鮮半島の南部にあった国である三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の名称に由来するものだったようです。ただし、その意味は本来の意味からは変容しており、既に三国時代(前1世紀~7世紀頃)の後期には「三韓」は高句麗、百済、新羅の三国を意味するものとなっていました。このため、高宗は、朝鮮半島を「三韓の地」として認識しており、それを一つにした朝鮮半島全体を意味する「韓」に「大」を付けて、「大韓」を新しい国号としました。

これに加えて、国名を「帝国」としたのは、中国の冊封体制からの離脱に際して、朝鮮国王の称号を「皇帝」へと格上げしたことによります。つまり、当時、「大韓」と「帝国」といういずれの名称も、中国からの朝鮮の独立を意味していたわけです。

三世紀初めの三韓の勢力
Hangunhyeon_Early_CE_3rd_Century
(原本へのリンク)




参考
  • Wiki(「大韓民国」「大韓帝国」
  • ナムウィキ「大韓民国/国名」(韓国語)


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