ソウルから南へ電車で1時間ほどの水原(スウォン)市には、朝鮮王朝後期に造られた都城「華城(ファソン)」があります。
その城郭は全長5.7kmであり、城郭に沿って歩くことができます。世界遺産に登録されているだけあって、観光地として優れた建築美を備えているだけでなく、その歴史的価値も高いといえます。
華城は、18世紀末に第22代王・正祖(チョンジョ)が建造しましたが、なぜ首都・漢城(現ソウル)から離れた場所に、こんな城郭を造ったのでしょうか?
今回の記事では、そんな水原華城の歴史に触れながら、水原華城についてまとめてみました。
水原華城に行く前に知っておきたいこと!
ソウルから南方約35kmにある水原(スウォン)市には、18世紀末に造られた城、華城(ファソン)があります。
その城壁は全長5.7km程度です。首都・漢城(現ソウル)にあった漢陽都城の城壁は総長18.6kmと言われますので、城壁の長さは漢陽都城の3分の1以下です。城壁内の面積は漢陽都城の10分の1以下で小さいことがわかります。
その城壁は全長5.7km程度です。首都・漢城(現ソウル)にあった漢陽都城の城壁は総長18.6kmと言われますので、城壁の長さは漢陽都城の3分の1以下です。城壁内の面積は漢陽都城の10分の1以下で小さいことがわかります。
華城の建築には、18世紀末の東洋・西洋の近代建築技術が導入されており、その城壁の造りは世界遺産になっているだけあって大変見事です。
しかし、なぜわざわざ、首都・漢城より離れた場所に、このような城壁が造られたのでしょうか。
これを知るためには、水原華城を建造したその人、李朝第22代王・正祖(チョンジョ、1752年生、1776年〜1800年在位)の人生を知る必要があります。
当時、18世紀の朝鮮王朝の政治は、派閥争いによる党争が大変激しかったといわれます。そんな中、正祖の父(思悼世子)は、王の世継ぎとされながら政争に巻き込まれ、1762年に米びつの中で餓死という非業の最期を遂げてしまいます。
正祖の父は、漢城の北東の楊州にある陵墓に葬られました。
正祖の父は、漢城の北東の楊州にある陵墓に葬られました。
その後、正祖は、1776年に王に即位しますが、どれだけ父の死を無念に思い、混乱する政治改革の念にかられたのでしょうか。そんな正祖の父への想いは、1789年、父の亡骸を朝鮮最大の吉相の地である水原・華山に移すことで果たされます。正祖は、漢城南方の水原にある父の墓所を、12年間で13回、参拝したと言われます。
さらに正祖には、党派政治の根絶と強力な王道政治を実現するという、大きな政治構想がありました。
そこで水原に国防のための城を築城し、政治構想の中心地として新しい理想の都市を築いたのでした。1794年から工事を始め1796年完成したその城が「水原華城」でした。
一時は水原華城への遷都も検討されたと言われます。しかし、華城が完成してまもなく正祖が死去したことにより、遷都は見送られました。
水原華城は、1950年代の朝鮮戦争で大きな被害にも遭いましたが、1970年代に韓国政府により復元・改修され、現在に至っています。
水原華城の主な歴史1724年、第21代王・英祖即位1735年、正祖の父・思悼世子生まれる1752年、正祖生まれる1762年、思悼世子の死1776年、第22代王・正祖即位1789年、父親の遺骸を揚州から水原の華山に移す1794年、正祖・水原華城の建設(1796年完成)1800年、正祖死去1975年、復元・改修(1979年まで)1997年、世界遺産に登録
水原華城の見どころ(フォトスポット)
全長5.7kmの城壁をからなる華城には、東西南北に四大門が設けられています。
華城には、その他にも、水門、将軍が指揮を執る将台(チャンデ)や弓を射る弩台(ノデ)をはじめ、砲台、楼閣などの建造物が点在しています。
華城の城内には「華城行宮(ファソン・ヘングン)」も見どころの一つです。
八達門(팔달문、パルダルムン)
華城の南門です。
(原本へのリンク)
長安門(장안문、チャンアンムン)
華城の北門で、事実上の正門です。
(原本へのリンク)
華西門(화서문、ファソムン)
華城の西門です。
蒼龍門(창룡문、チャンリョンムン)
華城の東門です。
(原本へのリンク)
華城行宮(화성행궁、ファソンヘングン)
王が地方滞在の際に宿泊する建物です。
水原華城のまとめ
- 水原華城:第22代王・正祖が18世紀末に建造した城郭
- 行き方:地下鉄1号線水原駅よりタクシー・バス10分
- 年中無休
- 入場料:大人1000ウォン、青少年 700ウォン、子供 500ウォン
(公式ホームページ)
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