釜山(부산、プサン)は、韓国の近代化とともに成長した、人口350万ほどの規模を誇る韓国第2の都市です。

南東の海に面した海の玄関として韓国一の貿易港を抱えています。それだけ日本までの距離も近く、歴史的に日本と深い関係を有しています。

今回は、釜山の歴史をまとめながら、その歴史を知ることのできる釜山のスポット4つを紹介します。


釜山の歴史を知っていますか?


現在の釜山市がある地域は、古くは統一新羅時代(676年〜892年)に「東莱郡(동래군、トンネグン)」と呼ばれていた場所です。

その地域は高麗時代(918年〜1392年)に「東莱県(동래현、トンネヒョン)」と呼ばれるようになり、その中に富山浦(プサンポ)と呼ばれた港口がありました。

その後、李氏朝鮮時代(1392年〜)に入り、『東国輿地勝覧(1481年)』という地理書が完成した頃に、「富山」は「釜山」という地名になったと言われています。

古くより釜山の地理的な位置は、朝鮮半島の最南東の外れにあって、中国大陸の本土から最も離れた辺境の場所にありました。このため、長い歴史の中で釜山は、もとは人の少ない閑散とした漁村だったと言います。

しかし、そんな釜山は海の玄関としては日本に最も近い場所にあるとともに、国防の要所でもありました。

15世紀の初め頃、釜山(富山浦)には日本人の入港地かつ居留地として「倭館」が置かれました。なお、その他にソウルと2カ所の浦所(乃而浦、塩浦)にも倭館があったと言います。

しかし、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592年〜1598年)では、そのまま釜山は日本の軍勢が上陸した地になりました。このとき、倭館は焼失したと言われます。

その後、徳川幕府が成立した後の1607年、関係修復の際に釜山の豆毛浦にあらためて倭館が設けられました。それが、1678年に龍頭山公園の辺りに移転したものが「草梁倭館」でした。

江戸時代には、草梁倭館を拠点として対馬藩が日朝交易を行っていました。

その後、日本で明治新政府が成立すると、1876年に締結された日朝修好条規(江華島条約)により釜山は開港されることになります。これにより草梁倭館はその役目を終えました。

釜山には多くの日本人が住むようになり、釜山は港湾都市として大きな成長をしていくことになります。

1950年に始まった朝鮮戦争の際には、釜山は臨時首都の役割を果たしました。このとき釜山には、北朝鮮を含む全国からの多くの避難民が集まったといいます。避難民によって市場や住まいが造成され、それが現在の国際市場甘川文化村として残っています。

釜山の主な歴史

1392年、李氏朝鮮成立

15世紀始め、富山浦に倭館設置

1592年、文禄・慶長の役(1598年まで)

1607年、豆毛浦に倭館設置

1678年、龍頭山一帯に草梁倭館が移設

1876年、日朝修好条規により釜山開港

1905年、京釜線が開通し、釜山駅が開業

1910年、韓国併合

1914年、東莱府が釜山府に改称

1949年、釜山市に改称

1950年、朝鮮戦争が勃発。1953年まで釜山が臨時首都に

1963年、釜山直轄市になる

1995年、釜山広域市に改称



釜山の歴史的スポットを4つ紹介!


龍頭山公園

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龍頭山(용두산、ヨンドゥサン)公園は、その名のとおり、龍頭山という小高い山にあります(Google地図)。李朝後期の1678年以降は、この山を含む一帯に日本人の住む草梁倭館があったといいます。

この地域は、1876年の釜山開港後、そのまま日本人の居留地となったようです。龍頭山神社も造られたと言います。

日本植民地時代末期の1944年に、現在の公園と作られたようです。


草梁倭館(現在は跡地を残すのみ)

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龍頭山公園には、この周辺が草梁倭館だったことを記す石碑が建てられています。その倭館の昔の様子を示す絵が残されています。

約10万坪の敷地をもち、対馬藩の者のみ滞在者が許されたようです。草梁倭館には数百人が駐在していたと言われ、長いあいだ日朝交易の中心を担いました。

こうした倭館も、明治新政府が成立し、日朝外交の権限を外務省に移管することで、1873年にその役割を終えたといいます。


国際市場


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国際市場(국제시장、クッチェシジャン)は、龍頭山公園の近くにある古くからの市場です(Google地図)

1950年から始まった朝鮮戦争の避難民が、この市場で米軍部隊からの流出品や釜山港から入ってきたヤミ物資、中古製品などを売り始めたのだと言われます。

現在では、多くの観光客も訪れる大きな市場となっており、『国際市場で逢いましょう』という映画の舞台にもなっています。


甘川文化村

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甘川文化村(감천 문화마을、カムチョン・ムナマウル)も、朝鮮戦争の折に北朝鮮から逃げてきた人々が山肌につくった集落だったとされています(Google地図) 。

当時、住む場所を求めて、山の深いところまで住処をつくったことが思い浮かびます。山の斜面に家や路地が入り乱れており、空中都市を意味する「韓国のマチュピチュ」とも言われるようです。




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