朝鮮王朝の第4代王である世宗大王(1397年〜1450年)は、名君として知られていますが、その死後の数年間は、子供・孫たちの間で壮絶な王位継承の争いがあったことはご存知でしょうか。

その争いの中心にあったのが、今回紹介する第7代王・世祖(セジョ/세조)です。強い王権による国づくりをした光の部分よりも、反対勢力をことごとく粛清または排除した影の部分がクローズアップされることが多い人物です。

世祖を知ることにより、2つの権力は成り立たないという、朝鮮王朝の壮絶な権力争いを知ることができます。本記事では、世祖とはどんな人物であったのかを紹介するとともに、世祖が登場するドラマ・映画も紹介していきます!

【目次】
  1. 世祖はどんな人物?その評価は?
  2. 世祖を知るための8つのポイント!
    ①文武に優れた野心家だった!
    ②王権強化への強い野望
    ③首陽大君とクーデター「癸酉靖難」
    ④端宗復位運動と世祖による大粛清~死六臣と端宗の処刑~
    ⑤世祖の晩年の苦しみは因果応報?
    ⑥仏教に帰依した稀有な王
    ⑦強い王権による国造りと国の法典「経国大典」の策定
    ⑧後継者も病弱で恵まれなかった
  3. 世祖の登場するドラマ・映画
    ・ドラマ『独裁者への道 首陽大君の野望』
    ・ドラマ『死六臣』
    ・ドラマ『王女の男』
    ・ドラマ『不滅の恋人』
    ・映画『観相師 -かんそうし-』
    ・映画『王と道化師たち』
    ・その他のドラマ

世宗の肖像画(着色本)
세조

(原本へのリンク)


世祖はどんな人物?その評価は?

世祖(1417年〜1468年)は、朝鮮第7代王として即位し、武に優れ、強い王権により国政を行った、いわば豪腕な王でした。

しかし、それは世祖の、王としての実績であって、本来、彼は王になることのできないはずの人物でした。というのも、彼は第4代王・世宗の次男で、その世宗が後継ぎ(世子)として指名したのは長男(のちの文宗)だったからです。

世祖は、どのようにして王になることができたのでしょうか?

それは、世宗が1450年に没した後、文宗(ムンジョン)・端宗(タンジョン)という2代の王が在位した、わずか5年間の出来事でした。

文宗が王として2年で病没し端宗が即位したその当時、世宗の次男は首陽大君(スヤンテグン/수양대군)と呼ばれていました。彼は、1453年に、幼き端宗から王位を奪うためのクーデター「癸酉靖難(ケユジョンナン)」を起こすのです。

そして、1455年に端宗から王位を強奪して、ここに第7代王・世祖が誕生します。その過程で、そしてその後も、世祖は兄弟たちまでも殺め、その他のたくさんの血が流れました。死にゆくものは死に、生きる者だけが生き残り、そんな世祖が目指した朝鮮の国は、強い王権の国でした。世祖は、豪腕を奮って、そんな国づくりのために、様々な制度を変え、法制を整え、国の防衛も強化しました。

世祖には、冷酷さと、王としての強さという2つのイメージがあり、このため評価も二分されます。ドラマや映画で描かれるイメージは、彼の残酷な面が描かれています。

世祖の晩年は、過去を後悔したとも言い、病気や悪夢にも苛まされます。苦しんだ彼は、仏教に帰依し、仏教の復興を図りました。そんな朝鮮王として非常に類まれな存在が、世祖でした。

世祖まとめ

  • 読み方:セジョ/세조
  • 誕生:1417年9月24日
  • 在位:1455年7月25日~1468年9月22日
  • 死去:1468年9月23日
  • 王宮景福宮(正宮)、昌徳宮(離宮)、寿康宮(昌慶宮の前身) 
  • :世宗(次男)
  • :昭憲王后
  • 兄弟:文宗(兄)、安平大君(弟)、錦城大君(弟) など
  • :貞熹王后尹氏(正妃)
  • :桃源君・李暲(世子、早世)
      李晄(第8代王・睿宗) など
  • :光陵(京畿道南楊州市)



世祖を知るための8つのポイント!

①文武に優れた野心家だった!
②王権強化への強い野望
③首陽大君とクーデター「癸酉靖難」
④端宗復位運動と世祖による大粛清~死六臣と端宗の処刑~
⑤世祖の晩年の苦しみは因果応報?
⑥仏教に帰依した稀有な王
⑦強い王権による国造りと国の法典「経国大典」の策定
⑧後継者も病弱で恵まれなかった


①文武に優れた野心家だった!

朝鮮王朝は、そもそも高麗末の軍人であった李成桂が建国した国です。しかし、その後代の朝鮮王たちは、宮廷の中で暮らしていたため、武に長けているというイメージは少ないのではないでしょうか。

そんな中で、世祖は、1417年に世宗の次男として生まれ、幼少期を宮廷の外の民家で過ごしました。その後、宮廷に戻りますが、彼は若き時節から弓や馬、狩りを好み、その腕も確かな人物だったと伝わっています。

また、世祖は、父や兄に比べて気力や体力に恵まれており、さらには賢く大変な野心家でした。そうした彼自身の類まれな素質が、後年に、世祖という王をつくったのです。


②王権強化への強い野望

世祖は、王に即位する前から、強い王権を実現する野望を抱いていたと言います。

特に、彼の父である世宗は後年、病気がちでしたから「議政府署事制」という政治体制を敷き、王権を分散させていました。これによって王権は弱体化し、臣下らの勢力が伸長しました。こうした状況に、世祖(首陽大君)と、その弟である安平大君(アンピョンテグン)は、強く憤ったと伝わっています。世宗は、2人の兄弟の野心を警戒し、彼らを王宮から離れたところに置きました。

一方、次の王位後継者(世子)であった世祖の兄は、優秀ではありましたが病弱でもありました。世宗亡き後、その兄は第5代王・文宗として王位に就きましたが、わずか2年で死去します。その年の1452年、その跡を文宗の子(すなわち世祖の甥)が継ぎ、第6代王・端宗として即位しました。しかし、端宗は12歳で王としては幼かったため、文宗は側近らに自ら亡き後を託したと言います。

こうした中で、世祖の王権強化の野望は、その実現の時が窺っていたのでした。


③首陽大君とクーデター「癸酉靖難」

端宗が王に即位した頃、世宗は「首陽大君」という名を名乗っていました。この名の人物こそが、歴史に残るクーデターを起こして、甥である端宗から王位を奪った人物です。この衝撃的な事件のために、「首陽大君」という名もとても有名です。

その当時、弟である安平大君も、王位を狙っていました。これに対し、1453年、首陽大君は、韓明澮(ハン・ミョンフェ)や權擥(クォン・ラム)らと結託し、端宗の側近であった皇甫人(ファンボイン)、金宗瑞(キム・ジョンソ)らを殺害し、その後、弟の安平大君も江華島に島流し(後に処刑)にしまし。

これが、悪名高き「癸酉靖難(계유정난/ケユジョンナン)」と言われる事件でした。これにより、首陽大君は政権を掌握します。

その後、1454年に弟の錦城大君も江華島に島流しとし、続く1455年には、端宗に退位を強要して、彼は39歳で王位に上ります。第7代王・世宗の誕生です。


④端宗復位運動と世祖による大粛清~死六臣と端宗の処刑~

端宗から王位を強奪した世祖への周囲の評価は悪く、彼の即位後は、旧勢力による端宗復位運動が起こります。

1456年に、成三門(ソン・サンムン)らが世祖を排除しようとする計画を立てますが、途中で計画が漏れ、世祖により処刑されるという事件が起きます。このとき処刑された6名の忠臣を「死六臣(サユクシン/사육신)」と言います。その一族らも処刑、流罪、奴隷にされたりし、大粛清の嵐が吹き荒れました。この事件により、端宗は江原道寧越へ配流されました。

その翌年の1457年、今度は弟の錦城大君(クムソンテグン)が、再度の端宗復位計画を立てました。しかし、これも失敗に終わり、結局、錦城大君まで処刑されることになります。こうした一連の事件は、世祖を疑心暗鬼にさせ、その結果、端宗まで処刑されることになったのでした。


⑤世祖の晩年の苦しみは因果応報?

多くの人命を奪ってきた世祖の晩年は、病気と悪夢に苦しむ悲惨なものになりました。

その病名はハンセン病。病原菌により皮膚と末梢神経が侵される不治の病でした。彼は、治療のために、京畿道牙山(アサン)の温陽(オニャン)温泉を訪れたり、江原道平昌郡の五台山(オデサン)にある山寺「上院寺」に出向き文殊菩薩像の前で100日祈祷をしたりしました。このとき、文殊童子が現れたと伝わっています。

その上、世祖は日々の悪夢に苛まされ、不眠症になったと言います。端宗の母が夢に現れて彼に唾を吐きかけたため、病状が悪化したという伝説が残っているほどです。

上院寺にある文殊童子座像(国宝、世宗12年製造)
문수동자좌상
(原本へのリンク)

⑥仏教に帰依した稀有な王

李氏朝鮮と言えば儒教の国ですが、晩年の世祖は精神的苦しみの中で、臣下の強い反対にあいながらも仏教に帰依したと言います。これにより彼は、王宮内に仏堂を建て、国内の寺院創建や修復も推し進めました。

1464年には、首都・漢城(現・ソウル)に、円覚寺(ウォンガクサ/원각사)も建てています。ただし現在は、その場所に跡地が残るのみです。

朝鮮王族の中には、政治から距離を置くために仏教に傾倒した人物もいます。しかし、世祖の場合は、王として仏教を信奉し、その復興を図りました。強い王権を持った世祖であったからこそ、儒教社会の中にあって仏教の普及を推し進めることができたので、この点では、まさに李朝王の中において唯一ともいえる存在であったと思います。

円覚寺跡十層石塔(国宝、ソウル鍾路区タプコル公園)
円覚寺
(原本へのリンク)

⑦強い王権による国造りと国の法典「経国大典」の策定

強い野心により王位に上った世祖。その彼は、強い王権をもって国を動かしていきます。

世祖は、即位するとすぐ、父の世宗が廃止した六曹直啓制(육조 직계제)を復活させ、王権の強化を図りました。さらに職田(직전)法を定めて、現職の官吏のみに土地を支給するように土地制度を変えています。彼は軍事制度も整え、北方領土からは異民族である女真族を追放し、その領土を確固たるものにしていきました。

一方、死六臣などを生み出す温床となった学問機関「集賢殿」を廃止した一方で、法典や歴史書の編纂事業を推し進めました。彼の代に経国大典(吏典・戸典・礼典・兵典・刑典・工典からなる)を編纂したのも、世祖の功績として残っています。

国政に剛腕を振るった世祖は、父・世宗とは正反対の王でした。その彼の評価は、冷酷な面と強いリーダーシップとの間で、今でも2つに分かれています。

⑧後継者も病弱で恵まれなかった

晩年の世祖は病状が悪化して、ついに1468年に死去します。しかし、世祖は、彼の王位を継承する後継者にも恵まれませんでした。

もともと世祖の後継者(世子)は、彼の長男でしたが、早世で病により既にこの世を去っていました。このため、次男が第8代王・睿宗(イェジョン/예종)として即位します。しかし、その彼も病弱で即位後1年余りで死去してしまいます。19歳という短い命でした。

世祖の年表


1417年、次男として誕生
1418年、第4代王・世宗即位
1450年、世宗死去、第5代王・文宗即位
1452年、文宗死去、第6代王・端宗即位
1453年、端宗の側近を殺害(癸酉靖難)
1455年、第7代王に即位
1456年、成三問ら端宗復位運動および処刑(死六臣)
1457年、金城大君の端宗復位計画および処刑
1457年、端宗を処刑
1460年、経国大典の最初の「戸典」完成
1464年、漢城に円覚寺を創建
1468年、死去(享年50歳)



世祖の登場するドラマ・映画

ドラマ『独裁者への道 首陽大君の野望』

KBSで1990年4月より全50回にわたって放送された歴史ドラマ。世宗が死去してから世祖が王位を奪った後の数年間の話を描く。原作は1970年代の歴史小説『破天武(파천무/パチョンム)』で、こちらが韓国のドラマの原題である。


ドラマ『死六臣』

KBSで2007年8月より全24回にわたって放送された歴史ドラマ。KBSの企画で、北朝鮮の国営朝鮮中央テレビが制作した。


ドラマ『王女の男』

KBSで2011年7月より全24話にわたって放送された歴史恋愛ドラマ。平均視聴率17.2%。歴史を舞台として、世祖の娘イ・セリョン(史実の人物ではない)と金宗瑞の末っ子の恋愛フィクションを描く。1873年の説話集『錦鶏筆談/금계필담(徐有英の著作)』を元にしている。

ドラマ『不滅の恋人』

テレビ朝鮮で2018年3月より全20回にわたって放送された歴史恋愛ドラマ。首陽大君と弟の安平大君の王位継承の争い中で、1人の美女をめぐる三角関係を描く。韓国語の原題は『大君〜愛を描く(대군 - 사랑을 그리다)』。

映画『観相師 -かんそうし-』

韓国で2013年に公開された映画。王位を狙う首陽大君の顔の観相を占うことができる、観相師の視点から当時の歴史をリアルに描いている。主演は、名優ソン・ガンホ。

映画『王と道化師たち』

韓国で2019年公開された映画。道化師たちが逆賊を制裁を下す韓国時代劇アクションコメディ。

その他のドラマ

  • ドラマ『王と妃』:KBSで1998年6月から2000年3月まで全186話にわたって放送された大河テレビドラマ。第9代王・成宗の母である仁粋(インス)大妃(1437年~1504年)の生涯を描く
  • ドラマ『インス大妃』:JTBCで2011年12月より全60話にわたって放送されたドラマ


参考文献など

  • ウィキペディア(韓国語)「朝鮮世祖(조선 세조)」






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