朝鮮王朝の第9代王である成宗(ソンジョン)。建国100年を迎える時期に登場したこの王は、儒教に立脚した国づくりを完成させたといわれる人物です。

成宗は幼くして王位に就きましたが、それだけに王を取り囲む官僚たちの力が強かった時代でした。王は成人したのち、そうした政治勢力を弱体化させるために苦心しました。そして成宗は多くの側室も設けました。平和だったこの時代に潜む矛盾は、暴君といわれる第10代王・燕山君を生み出していきます。

本記事では、成宗とはどんな人物であったのかを紹介するとともに、成宗が登場するドラマ・映画も紹介していきます!

【目次】
  1. 成宗はどんな人物?何を成したの?
  2. 成宗を知るための7つのポイント!
    ①父を亡くし母と育った幼少期!
    ②世祖の功臣たちにより幼くして王位に就いた!
    ③「垂簾聴政」を行った慈聖大妃と仁粋大妃
    ④旧勢力の「勲旧派」
    ⑤「士林派」の登用
    ⑥成宗の功績
    ⑦廃妃尹氏の死と燕山君
  3. 成宗の登場するドラマ・映画
    ・ドラマ『韓明澮 〜朝鮮王朝を導いた天才策士〜』
    ・ドラマ『王と妃』
    ・ドラマ『インス大妃』
    ・ドラマ『王と私(왕과 나)』
    ・ドラマ『太陽を抱いた月(해를 품은 달)』
    ・映画『於于同〜朝鮮宮廷スキャンダル〜』

成宗の肖像画(想像)
성종
(原本へのリンク)


成宗はどんな人物?何を成したの?

成宗(ソンジョン/성종、1457年〜1495)は、李氏朝鮮の第9代王(在位1469年〜1495年)です。朝鮮王朝は1392年の建国ですから、ちょうど成宗の代に建国100周年を迎えたことになります。

成宗という名前は死後につけられたものですが、この名のとおり、儒教立国を目指して建てられた李氏朝鮮の国づくりは、成宗により完成の目を見ました。世宗と同じく、王道政治を貫いて平和な時代を築いた名君といわれてきた人物です。

成宗は12歳のときに王になりました。大きなクーデターもなかったこの王の時代は、ドラマが作られる場合にも、成宗自身より、その周辺の人物が描かれることが多いようです。この時代、幼き王に代わって摂政が行われ、その政治権力を握ったのが、成宗の母や祖母といった前王の妃とその外戚たちでした。正当な王位後継者とは言いにくかった成宗が即位できたのは、こうした権力がバックにあってのことでした。

その後、成宗は成人し、自ら親政を行うようになります。この時、真っ先に行ったのが、新しい政治勢力の登用でした。これが旧勢力「勲旧勢」に代わる「士林派」の登用です。こうした者たちは、地方各地で朱子学を学んでいた学者たちで、成宗は学問を重視した王でした。

そのほかに成宗の功績としては、李朝の法典である『経国大典』の完成やさまざまな書籍の編纂事業、北方領土の平定、崇儒抑仏政策などが良く知られています。

成宗には、3人の正室のほか、9人の側室がいました。1人目の正室は後継ぎを残せず早世し、2人目の正室は非業の死を遂げています。成宗の治世の後半は、女性問題がありました。争いの絶えない政務の中で、女性に安らぎを求めていたのかもしれません。

25年の在位期間を終えた成宗は、1495年に38歳で病気により死去しました。

この平和な時代の政治を知ると、朝鮮王朝の官僚や王妃・外戚たちの権力争いがどのようなものかが見えてきます。こうした成宗時代の政治のゆがみは、次の王・燕山君の時代に噴出するようになります。


成宗(まとめ)
  • 読み方:ソンジョン/성종
  • 誕生:1457年8月19日
  • 在位:1469年12月31日~1495年1月20日
  • 死去:1495年1月20日
  • 王宮:景福宮(正宮)、昌徳宮(離宮)、昌慶宮(元・寿康宮)
  • :懿敬(ウィギョン/의경)世子(次男)
  • :昭恵王后韓氏(後の仁粋大妃)
  • 妻(正妃):恭恵王后韓氏、廃妃尹氏、貞顕王后尹氏
  • :宣陵(ソウル市)

成宗の墓・宣陵(ソウル市)
성릉
(原本へのリンク)


成宗を知るための7つのポイント!


①父を亡くし母と育った幼少期!

成宗は、第7代王・世祖(セジョ)の孫であり、世祖がクーデターにより王位に就いてから2年後の1457年に生まれました。世祖の後継ぎであった第1王子・懿敬世子(桃源君、死後「徳宗」とも呼ばれる)が父親で、成宗はその次男でした。

しかし成宗は、生後間もなく父親を病気で亡くします。父の死後、成宗と母親(後の仁粋大妃)は王宮の外で暮らすようになりました。貧しい生活の中でも、幼い成宗は、不平不満を示さず、その気持ちを表すこともなかったと言います。また、成宗は幼い頃から聡明で落ち着いていたため、祖父である世祖からは、初代王・太祖や世宗に似ていて、気質と学識に優れているとの称賛を受け可愛がられました。

こうした真面目で模範生として育った成宗の気質やその環境は、彼が王位に就いて以降の足取りや功績を理解するのに重要だと思います。後年、成宗は、世祖の政治勢力を支援を受けて国王となり、その後、こうした旧政治勢力を排除しようと奔走することになるからです。

成宗が10歳になった年に、世祖は病気で亡くなります。このとき、既に亡くなっていた成宗の父に代わって王位を継いだのは、世祖の第2子「第8代王・睿宗(イェジョン)」でした



②世祖の功臣たちにより幼くして王位に就いた!

成宗は、5歳の時から乽山君(チャルサングン/잘산군)と呼ばれていました。

1468年、成宗が10歳の時に、成宗の叔父である睿宗が王位につきます。しかし、その翌年1469年に、睿宗は即位後わずか1年2か月で死去してしまいます。原因不明の病気での突然の死であり、これには毒殺説まで出ています。

こうなると、次の王位が問題となります。睿宗の息子は4歳と幼く、成宗の兄である月山大君(ウォルサンデグン)は病弱でした。このとき成宗もまだ12歳でしたが、王として選ばれたのは彼でした。

成宗を王として即位させたのは、成宗の祖母で世祖の正室であった慈聖大妃と、世祖の功臣たちだったと言います。こうして、幼き第9代王・成宗が誕生することになります。


③「垂簾聴政」を行った慈聖大妃と仁粋大妃

1469年、成宗が王位に着いたといっても、まだ幼かったため、自ら国政を行うことができません。成宗に代わり国政を取り仕切ったのは、前王たちの妃やその親族・功臣たちでした。こうして摂政を行うようになった2人の女性のうち、一人は成宗の祖母であり、もう一人は成宗の生母でした。

成宗の祖母というのは、祖父・世祖の正室です。貞熹王后尹氏(チョンヒワンフ・ユンシ、1418年〜1483年)と言い、慈聖大妃(チャソンテビ)とも言われています。

成宗の生母は、昭恵王后(ソヘワンフ/소혜왕후、1437年〜1504年)と言い、仁粋大妃(インステビ)とも言われます。朝鮮史における稀有の女傑、もしくは鉄の女として知られており、ドラマの主人公にもなっている人物です。

しかし、朝鮮は儒教王朝で女性が直接表に立って政治を行うことは好まれなかったため、2人の大妃は玉座の後ろに簾を掛けて、朝鮮最初の「垂簾聴政」を行いました。

こうした摂政は1476年まで続いた後、成宗の成人に伴って、成宗による親政が始まりました。

インス大妃(ドラマ)
인수대비(드라마)


④旧勢力の「勲旧派」

朝鮮の王家に嫁いでくる妃やその一族の力は、非常に強いものです。幼い王・成宗に代わって、国の政治を取り仕切っていたのも、そうした功臣たちでした。

当時、政治の権力を握っていた功臣たちの派閥を勲旧派(フングパ)と呼びます。彼らは朝鮮の建国に協力した者たちの子孫であり、特にこの時代の権力者は、世祖王の擁立に功を立てた勲臣たちでした。

その中に、成宗の摂政時代の7年間の国政の全決定権は、申叔舟、韓明澮らが握っていました。

特に韓明澮(ハン・ミョンフェ、1415年~1487年)は、ドラマの主人公になっているほどの有名な歴史人物です。その娘2人は、睿宗の王妃と、成宗の1人目の王妃・恭恵王后となっており、彼は勲旧派の頭領として政権を掌握しました。

しかし、恭恵王后が成宗の跡継ぎを生まずに早世し、成宗が成人した後は、韓明会の権勢も衰えていきました。


⑤「士林派」の登用

成宗の功績として忘れてはいけないのは、勲旧派の対抗勢力である「士林派」の登用です。

成宗の摂政時代は、勲旧派や戚臣らの台頭を許して、彼らが絶大な権力を握っていました。その後、成宗の成人により親政が始まると、彼は勲旧派から政治の決定権を取り戻し、新しい勢力の登用を図ります。その中心的人物として金宗直(キム・ジョンジク、1431年~1492年)がいました。

金宗直は、慶尚北道の地方の有力者で、世祖の時代に科挙の試験に受かって李朝の官吏となりました。しかし彼は朱子学の学者として、世祖の治世に対しては批判的だったといいます。

成宗は、金宗直を寵愛していたといい、金宗直とその門徒生らを積極的に登用しました。こうした政治の新勢力は、朝鮮建国に協力せずに地方に下っていった有力者の後孫たちでした。こうした在野で中小の地主として活動していた朱子学の学者たちを成宗は登用しました。彼らが「士林派」と呼ばれています。

その後「士林派」は、朝鮮の中期以降、政治の中核勢力になっていきました。


⑥成宗の功績

成宗は、世宗や世祖が成し遂げた治世を引き継いだだけでなく、士林勢力の政治的基盤を作っていきました。こうした成宗の治世は「文化の黄金期」と呼ばれるほどでした。

1474年には『経国大典』を完成させ、1492年には経国大典を補った『大典続録』と『東国輿地勝覧』、『東国通鑑』、『楽学軌範』などの多様な書籍を刊行しました。

また成宗は、世祖により廃止されていた「集賢殿」と似た役割をする学術・国王諮問機関として「弘文館」を設置し、ここに士林派を登用しました。さらに成宗を官吏たちに読書を推奨し、そのための読書堂もを設置しています。

さらに成宗は、僧侶たちを厳しく統制して大部分の寺院を閉鎖するなど、崇儒抑仏政策を徹底的に実践しました。対外的には鴨緑江周辺の女真族を追い出して、豆満江地域などの北方領土を平定しました。

3人の大妃のために「昌慶宮」を建造したのも成宗でした。



⑦廃妃尹氏の死と燕山君

成宗には、3人の正室がいましたが、それは彼の治世で大きな汚点と災いを残す結果になってしまいました。

成宗の最初の正室であった恭恵王后が子を授かることなく1474年に死去すると、1476年に廃妃尹氏(斉献王后)が王妃になりました。この王妃との間に成宗の長男として生まれた子が、後に暴君として知られる第10代王・燕山君(ヨンサングン)です。

廃妃尹氏は、美貌の持ち主として、身分の低い家系の中から成宗が側室として寵愛していた女性でした。この女性を、成宗は周囲の反対を押して、2人目の正室にしました。彼女は息子・燕山君を生みましたが、彼女は激情や嫉妬の持ち主で、そうした性格が祟り、3年後には王妃から降格させられました。その後、成宗の顔に傷をつけたという理由で、1482年、王命により毒薬で、28歳でこの世を去りました。

それでも成宗の長男であった燕山君は、1483年に後継者(世子)に冊封され、成宗が死去した1495年に、王位に登りました。しかし、母の悲劇の死を知った彼は、後年、大変な暴君となっていくのでした。


成宗の年表
1455年、世祖が第7代王に即位
1457年、懿敬世子(世祖の第1王子)の2男として誕生
1457年、1月後に懿敬世子が死去
1467年、恭恵王后韓氏と婚姻
1468年、世祖が死去。睿宗が第8代王に即位
1469年、睿宗が死去。第9代王に即位(12歳)
1473年、廃妃尹氏が側室となる
1474年、『経国大典』完成・頒布
1474年、正室・恭恵王后韓氏が死去。
1476年、親政の開始。廃妃尹氏が正妃となる。燕山君生まれる
1479年、廃妃尹氏廃位
1480年、貞顯王后尹氏が正妃となる
1482年、廃妃尹氏死去
1483年、寿康宮を修繕し「昌慶宮」に改称
1495年、死去(享年38歳)



成宗の登場するドラマ・映画

〇ドラマ『韓明澮 〜朝鮮王朝を導いた天才策士〜』
KBSで1994年1月より全104回にわたって放送された大河ドラマ。

〇ドラマ『王と妃』
KBSで1998年6月から2000年3月まで全186話にわたって放送された大河テレビドラマ。第9代王・成宗の母である仁粋(インス)大妃(1437年~1504年)の生涯を描く。

〇ドラマ『インス大妃』
JTBCで2011年12月より全60話にわたって放送されたドラマ。

〇ドラマ『王と私(왕과 나)』
SBSで2007年8月より全63話にわたって放送された歴史ドラマ。タイトル中の「私」は宦官キム・チョソン。王に仕える宦官を主人公にしてストーリーが展開される。平均視聴率18.7%。

〇ドラマ『太陽を抱く月(해를 품은 달)』
MBCで2012年1月より全20話にわたって放送された歴史ファンタジードラマ。ソンジョという仮想の王が登場する。平均視聴率33.2%。

〇映画『於于同〜朝鮮宮廷スキャンダル〜』
韓国で2015年7月に公開された映画。於于同(어우동)は、両班の妻でありながら、多くの男性と肉体関係を持った人物として知られる。


参考文献など

  • ナムウィキ(韓国語)「成宗(朝鮮)」
  • ウィキペディア(韓国語)「朝鮮成宗」
  • ウィキペディア「成宗(朝鮮王)」「士林派」「韓明澮」







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