仁川(インチョン)といえば、仁川駅のすぐ東側にある中華街、チャイナタウンが有名です。
けれど、約130年前に思いを馳せてみると、その一帯は、仁川が開港し、その直後から日本人や外国人が住み始めた租界でした。
現在、「開港場」と呼ばれるこの租界エリアは、当時の近代建築や日本人街の建物が残る観光スポットになっています。
私も、もう数年前になりますが、行ってみたことがあります。そこで今回の記事では、「開港場」に行く前に知っておきたいこととして、仁川の開港の歴史についてまとめてみました。
開港により都市化されていった仁川の歴史
李氏朝鮮(1392年〜1910年)の時代、仁川地域には、行政機関の役割を担う仁川都護府(인천도호부)が置かれていました。その場所は、現在の仁川市南区の文鶴洞(문학동)にあったと言われます(地図)。
李氏朝鮮の時代は鎖国の時代でしたが、1883年の日朝修好条規により仁川は開港され、時代は大きな変化を迎えることとなります。
その港のあった地域は、当時、「済物浦(제물포、チェムルポ)」と呼ばれていました。現在の仁川駅付近の場所になりますが、開港当時は、人はそれほど住んでいなかったようです。
1900年代の仁川港
(原本へのリンク)
開港後、済物浦には日本人や外国人が住む租界が形成され、近代式の建物が建てられます。仁川の中心は済物浦に移り、当時の仁川は国際的な玄関港の都市となりました。
1900年には仁川と京城(現ソウル)を鉄道で結ぶ京仁線が全線開通し、1906年には仁川の港が拡張されます。
1910年の韓国併合を経て、日帝時代には、仁川は朝鮮の一般の人たちの移住者も増え、居住地が造成されたと言います。仁川の重工業も発展していきました。
仁川の東側に広がる金浦・冨平の平野部は、食糧供給のための農地になり、冨平郡の一部が仁川府の府域として併合されていきました。
仁川地域は、農・工業団地ができ、日本人中心の都市社会へと変わっていったようです。
ただし、仁川の港湾都市としての機能は、京城と釜山を鉄道で結ぶ京釜線の開通(1905年)によって、釜山にとって代られていったと言います。これにより、仁川は、京城の衛星都市を役割を果たすようになっていきました。
仁川開港をめぐる主な歴史1413年、仁川郡に改称1459年、仁川都護府に昇格1882年、済物浦条約1883年、済物浦開港(日朝修好条規)。以降、清と日本の租界地と西欧諸国の領事館設立1887年、大韓帝国成立1894年、日清戦争1900年、京仁鉄道全線営業開始1906年、仁川港拡張1910年、韓国併合1949年、仁川市に改称
仁川「開港場」へ行ってみよう!(観光スポットの紹介)
現在、ソウル地下鉄1号線の仁川駅を降りると、西側に仁川港があり、その東側一帯は、中華街・チャイナタウンになっています。そのチャイナタウンの中を進み、東へ抜けると、「開港場」のエリアへ出ます。
(原本へのリンク)
「開港場」には、小高い丘にある韓国初の西洋式公園「自由公園」と、平野部にある開港期の古き街並みが残っています。
残存する、または再建されたそれらの建物は、1883年に仁川が開港した当時の近代式建物、西欧の教会や、その当時に由来するものを展示する博物館・展示館などです。
当時、日本人が住んでいた日本の租界エリアと、その他の外国人が住んでいた租界エリアは、租界階段でつながっています。
日本の租界エリアには、現在、「日本風通り」として当時の店舗や民家が再現されています。かつて日本の領事館や銀行、海運に利用された古き建物も見ることができます。
(原本へのリンク)
私が以前に行った時は、チャイナタウンに比べて開港場の方は人も少なく、落ち着いた雰囲気でした。
まずは仁川駅を降りてチャイナタウンに行き、その後、開港場のエリアをぶらっと散策しても面白いのではないかと思います。
開港場の観光スポット日本租界エリア
- 仁川開港博物館(旧仁川日本第一銀行支店)
- 仁川開港場近代建築展示館
- 中区庁(旧仁川府庁舎)
- 日本風通り
- 韓国近代文学館
- 仁川アートプラットフォーム
- 旧日本郵船株式会社仁川支店
- 旧日本第58銀行支店
- 各国租界階段(各国の共同租界へ続く階段)
各国租界・自由公園エリア
- 自由公園:韓国初の西洋式公園)
- 済物浦倶楽部(自由公園内)
- 韓米修好100周年記念塔(自由公園内)
- 虹霓門(홍예문):門の上を通れば自由公園から教会までいける
- 仁川内洞教会
- 内里教会
- 畓洞聖堂(답동성당)
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