江華島(강화도、カンファド)と言えば、1876年に日本と朝鮮が日朝修好条規(江華島条約)を締結した場所として有名です。それは、当時の朝鮮王朝を開国させた条約でありながら、朝鮮側が不利な条件の不平等条約であったとして将来の禍根を残すことにもなりました。

現在の江華島は、仁川市に属する”島”ではありますが、本土からの2つの大きな橋が架かっており、ソウルからのアクセスも良い場所にあります。その島内には観光スポットが多く、古来から近代に至るまでのさまざま史跡が点在する歴史的な島です。

今回、そんな江華島の歴史と魅力をまとめてみました。


なぜ江華島は歴史的な島となったのか?

江華島は、韓国を代表する歴史的な島と言っても過言ではありません。というのも、江華島には、檀君神話にまつわる場所から始まり、紀元前の古代人の生活拠点、高麗王朝の遷都の跡、李氏朝鮮時代から近代における数々の戦場跡などの数々の史跡が残っているからです。

ただし、江華島が歴史的に重要な役割を果たすようになるのは、高麗時代(918年〜1392年)に入ってからのことです。当時の高麗王朝の首都は、現在の北朝鮮国内にある開城(当時は開京)に位置していましたが、その王都のすぐ南に海峡を隔てて江華島があったのです。

江華島は、300km2ほどのかなり大きな島であり、韓国の島の広さランクインで4位に入っているほどです(参考)。その王都の南の島が、高麗を建国した初代王・太祖22年の時に「江華郡」と呼ばれるようになりました。

そんな高麗王朝も建国後300年を過ぎた頃には、国難の時代を迎えることになります。高麗の23代王・高宗は、1231年にモンゴルからの侵略を受けると、王都を開城から江華島に移しました。海峡で囲まれる江華島は、避難の遷都先として遠くない位置にありながら十分な広さもあり、防衛にも適していたわけです。

江華島への遷都時代は1270年まで続いたと言われ、島内には王都を模倣して城郭や宮殿、お寺などが構築されました。

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その一方で江華島は、漢江や臨津江の河口から上流へと上って行ける水路交通の要所にありました。このため、朝鮮時代(1392年〜1910年)に入ると、その水路を通じて首都・漢陽(現ソウル)へ外敵が攻め上るのを防ぐために、江華島は防衛の前線基地の役割を果たすことになります。1656年には、江華島の南東海岸に砲台「草芝鎮」も建設されています。

朝鮮王朝は諸外国を排斥する鎖国政策をとっていましたが、朝鮮末期になると、江華島はその諸外国との交戦の場となります。1860年代から1870年代にかけてフランス、アメリカ、そして日本と立て続けに戦火を交えた場所であり、その後、1876年に日朝修好条規(江華島条約)が締結された場所、それが江華島だったのです。

江華島に関する主な歴史

1232年、元の侵攻により高麗の首都・開城を放棄し、江華島へ遷都
1270年、開城へ再遷都/div>
1510年、三浦の乱
1592年、文禄の役
1597年、慶長の役
1636年、丙子の乱
1656年、李朝、江華島の南東海岸に砲台「草芝鎮」を建設
1866年、フランスにより一時占拠(丙寅洋擾)
1871年、アメリカの艦隊により一時占拠(辛未洋擾)
1875年、日本の軍艦により砲撃(江華島事件)
1876年、日朝修好条規(江華島条約)
1951年、江華良民虐殺事件
1995年、仁川広域市に編入


江華島の歴史的な観光スポット6選!

江華島には、島全体に古跡や遺跡が分布しています。それらを時代順にご紹介します。


檀君神話の聖地・摩尼山(マニサン)

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摩尼山(마니산、マニサン)は、江華島の南部にある海抜468mほどの山です(Google地図)。

この山がなぜ有名かと言うと、山頂付近に塹城壇(참성단、チャムソンダン)と呼ばれる石の祭壇があるからです。その起源ははるか古来、朝鮮開国神話の祖である檀君が民族の繁栄を祈願して春と秋に天に祭祀を捧げた祭壇なのだと伝えられています。

いわば摩尼山は朝鮮民族の発祥にまつわる地とも言え、毎年10月3日の開天節(ケチョンジョル)の祝日は、檀君を祭るイベント「開天祭」がここで行われています。そして毎年開催される全国体育大会に際して聖火を点火する場所でもあるのだそうです。

日本でも山は時に神格化され信仰の対象となりますが、韓国では摩尼山がそのような場所なのだと思います。


古代人の墓・江華支石墓(コインドル)

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江華島には、古代の建国神話だけでなく、実際に古代人が生活した跡も残されています。それが紀元前1000年頃ともいわれる時代に築かれたとされる古代人の墓「江華支石墓(고인돌、コインドル)」です。

支石墓という様式のお墓は、全世界に分布するようですが、その中でもとりわけ韓国に集中して存在するのだそうです。韓国西部の海側に点在している支石墓群は「高敞、和順、江華の支石墓群」として世界遺産(参考リンク)にも登録されています。その中で江華島には、約120数基の支石墓が分布しています。

こうした支石墓の造りは、地面から2つ以上の柱状の石が置かれ、その上に大きな石が横たわってできています。江華島に分布している支石墓の中には、なかなか見に行くことは難しい場所にあるものもあるようです。その中で1つの支石墓が特に有名であり、それは江華島の北部の高麗山(コリョサン)の麓にあって、その周りはコインドル公園となっています(Google地図)。


高句麗時代の古寺・伝燈寺(チョンドゥンサ)

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江華島の南部にある韓国最古の寺で、高句麗時代の372年に高僧が建てたと伝わります。摩尼山の東にあって、標高222mほどの山の中にある山寺です(Google地図)。

伝燈寺の境内には、大雄宝殿や薬師殿などの建物を始め、仏像や鐘、そして樹齢600余年の銀杏の木などがあります。


江華山城と高麗宮址

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江華山城(강화 산성、カンファサンソン)は、高麗王朝の高宗が江華島に遷都したときに、その都の周囲を囲うように城壁を建設したものです(Google地図)。高麗宮址(고려 궁지、コリョクンジ)は、その遷都の時代に39年間にわたって使われていた王宮です(Google地図)。

現在の建築物は、いずれも復元されたものであり、江華山城については南門・北門・西門などが復元されています。


古き戦場となった景勝の地・燕尾亭


燕尾亭(연미정、ヨンミジョン)は、江華島の北東の端にあって、その場所は高麗時代には水運交通の要所だったと言われます。というのも漢江と臨津江が合流して、そのまま海に注ぐ河口の地点に燕尾亭があるからです。さらに、その川の水が江華島にぶつかって分岐し、一方は西方の海に注ぎ、もう一方は南方の江華海峡へとを流れています。その2つに分岐するさまが、燕の尻尾のかたちに似ているのだと言います。

燕尾亭は小高い丘となっており、その丘の上からは北方と東方へ遠方の陸地を一望できる景勝の地でした。

このため、朝鮮時代には、別荘が建てられた時期もあったようです。しかし、水路が交わるその場所では、倭寇による三浦の乱、秀吉による朝鮮出兵、清による丙子の乱などの数々の戦いが起きており、燕尾亭は軍事的防衛のための要塞でもありました。さらに、1876年に朝鮮王朝が日本と締結した江華島条約は燕尾亭が舞台だったと言われます。

北朝鮮の国境付近にある燕尾亭は、長い間、軍事保護区域に指定されていましたが、2008年に一般の人も観覧も可能になりました。


江華海峡の戦場跡の数々

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江華島の東にある江華海峡には、外敵の侵入を防ぐための数々の軍事拠点跡が残っています。

甲串墩台(갑곶돈대、カッコトンデ)は、高麗が江華島に遷都していた時代、モンゴル軍との戦いに用いられた要塞だったと言います(Google地図)。朝鮮時代には、大砲も設置され、近代戦の拠点となりました。

そのほかに、草芝鎮(초지진、チョジジン)、広城堡(カンソンボ)、徳津鎮(トッチンジン)も、19世紀の後半にフランス、アメリカとの間で海戦が繰り広げられた戦場跡です。






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