韓国の伝統的な陶磁器として、高麗の青磁と李朝の白磁がよく知られています。ただし、これらの陶磁器には、時代により、また作られた場所(窯元)により、多種多様なバリエーションがありました。
私は、どちらかと言えば白磁の方が好きです。白磁には、簡素かつ潔白で、それでいて大胆な趣きが感じられます。そこで今回は、李朝の白磁について、個人的な感想も含めて紹介したいと思います。
李朝の王の器「白磁」の歴史
もともと朝鮮半島では、高麗の時代(918〜1392年)に、貴族文化のもとで、ひすい色に輝く高麗青磁が盛んに造られていました。しかし、高麗の末期には、青磁窯は、度重なる外敵からの攻撃を受けながら衰退していたといいます。
青磁 有蓋壺(宝物第1071号)
(画像へのリンク)
そんな中でも、高麗の末期の頃には、粉青沙器(ふんせいさき)という陶器が自然発生的に生まれた一方で、中国の宋代(960〜1279年)の陶磁器の影響を受けた白磁も作られるようになったようです。
朝鮮時代(1392〜1910年)に入ると、陶磁器の再興が図られます。ただし、初期の頃は、粉青沙器が主に作られました。
粉青沙器「鉄絵蓮花唐草文瓶」
(ロサンジェルス・カウンティ美術館蔵)

一方、白磁も15世紀初期から幾つかの場所で限定的に少量作られるようになりました。中国の明代(1368〜1644年)の白磁の影響を受けながらも、李朝独自の白磁が王室用に製作されたとのことです。
1469年には、白磁は王室で使用する「王の器」として、京畿道広州地域の分院の官窯で作るよう法制化されました。その後、16世紀の後半頃には、各官庁が管理する各地の窯でも白磁が生産されていたといいます。
なお、分院というのは、王の食事を司る部署(時代により、司膳署、司饔院などと言われた)の分院として食器を焼かせた部署という意味です。
白磁 有蓋壺(国宝第261号)
(原本へのリンク)
秀吉の朝鮮出兵(1592年、1598年)のときには、多く窯元が破壊され、たくさんの陶工が日本に連れ去られたということで知られています。これにより李朝政府の経済も困窮し、白磁の製造にも支障をきたしたようです。
さらに時が下り、1697年には、王室用に白磁を進上したあとに残った白磁を、民間に販売することが許可され、その後、徐々に民間需要が増えていきました。
1752年には、京畿道広州に専門の分院の官窯が作られました。以降、実用性のある多種多様な分院の磁器が、安定的かつ効率的に作られるようになったとのことです。分院のあった場所の地名は「分院里(분원리)」といわれるようになりました。
さまざまな白磁の種類を知ろう!
白磁は、李氏朝鮮の王室が儒教思想に則り好んで用いたようですが、時代が下るにつれ、庶民にも日用品として広く一般に愛好されました。
白磁の壺の他にも、茶碗、祭器・酒器、文房具類(筆、紙筒・水滴)などが知られています。
こうした白磁の器の特徴には、時代ごとの変遷があり、前期、中期、後期の3時代に分けることができるようです。
白磁の器の色合いは、前期(1392年から1650年頃まで)は落ち着いた灰白色、その後、中期(1750年頃まで)は少し青味を帯びて雪のような純白色、そして後期(19世紀末まで)は透明性を失って濁った乳白色であったとも言われます。
また、李朝の初期には何も模様が描かれていない純白磁(순백자)が主に作られましたが、その後、顔料により模様が描かれるものも作られました。
白磁に描かれる模様は、その顔料の種類により、コバルトによる青色の模様を描く青画(せいか、청화)、酸化鉄の褐色の模様を描く鉄砂(鉄砂、철화)、そして酸化銅による赤色の模様を描く辰砂(しんしゃ、진사)があります。
白磁 青画梅竹文 立壺(国宝第219号)
白磁 鉄画雲龍文 立壺(宝物第645号)
白磁 銅画蓮花文 壺(国立中央博物館蔵)

こうした李朝の陶磁器は、19世紀末に至り、機械で大量生産された日本製の陶磁器が流入するにつれ廃れていったと言います。
そして、1910年代に至って、浅川伯教・巧兄弟が李朝の陶磁器の美に惹かれ、その研究に勤しむようになるわけです。
ある国の文化の素晴らしさを他の国の者が知る。そこに、日本で廃れた浮世絵が外国で再評価されたこととの共通点を見出すのは、私だけでしょうか。
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